なぜ医療に市場原理は通用しないのか?

このテーマは日本における医療の議論でも繰り返し出てきているので説明しておきたいと思います。医療経済学では、医療には市場原理は通用しないことが分かっています。市場原理を導入してもそれほど効率が良くなるわけではなく、社会全体のUtility = Social welfare (国民全体の幸福度みたいな感じでとらえて頂ければ良いと思います)は向上しないことが分かっています。ある意味、医療経済学は医療における市場の失敗(Market failure)を学ぶ学問だと言っても良いかもしれません。日本でも過去にも何回も医療に市場原理を導入しようと言う試みがあったと思いますが、医療経済学的にはあまり良い政策ではないと思われます。アメリカのオバマケアでは、民間保険会社と民間医療機関が強大な力を持っていたため社会保険制度や政府による公的医療保険制度を導入することは政治的に不可能であったため、その代わりに「規制された市場(Regulated market)」を整備することで市場の失敗を最小限にとどめる努力をしています(その結果、とても複雑な制度になりました)。逆に医療保険も病院も国の公的機関である英国では、十分な競争原理が生まれないということで、「管理された競争原理(Managed competition)」が導入されました(実はこの仕組みをデザインしたのはアメリカの経済学者のAlain Enthovenです)。用語は違いますが、基本的なロジックは同じです。アメリカと英国はスタート地点は両極端ですが、同じようなシステム(Managed competition)に向かって収束して来ていると捉えることができます。医療には市場原理は通用しないので、ある程度の規制が必要になります。医療は規制がないよりもあった方がうまく機能し、経済学的に最適な状態*に近づくと考えられています。

ではなぜ他の商品やサービスでは市場原理に頼れば最適化されるのに、医療では市場原理はうまくいかないのでしょうか?医療と言っても医療保険と医療サービス(実際の医療行為)で理由が違うのでそれぞれ説明します。日本でも医療保険でカバーされない部分の医療サービスをカバーする民間の医療保険が出てきていますが、医療保険に市場原理を適用しても市場は最適化されません。病院やクリニックで提供される医療サービスに関しては規制緩和が叫ばれていますが、残念ながら医療サービスに関しても市場原理は通用しません。なぜでしょうか?

医療保険に市場原理が通用しない理由

  1. 逆選択(Adverse selection)
  2. モラル・ハザード(Moral hazard)

医療サービスに市場原理が通用しない理由

  1. 不完全で非対称な情報(Imperfect and asymmetric information)
  2. 不完全な競争市場(Non-competitive market)
  3. 多くの病気は緊急性が高く、予測不能である
  4. 医療保険による市場のゆがみ(Market distortion due to health insurance)
  5. 外部効果(Externalities)

経済学用語がたくさん出てきたので、一つずつ説明したいと思います。逆選択とモラル・ハザードは医療経済学で一番重要なキーワードであると言っても過言ではないと思います。医療保険における逆選択とは、不健康な人ほどより良い医療保険を購入するという現象です(定義上は不健康な人ほどより高価な医療保険を購入するとなっていますが、分かりにくいのでこのように説明します)。モラル・ハザードとは、医療保険を持ているため実際に患者さんが支払う金額が本来の価格よりも低いため、希望する医療サービスの量(需要)が経済学的に最適なレベルよりも多くなってしまうと言う現象のことを表します。「モラル」という言葉が付いていますが、道徳的に悪いといった価値判断はなく(用語の聞こえは悪いかもしれませんが、モラル・ハザードは悪いことではありません)、合理的な人間であれば誰もが当然そのように行動するものであるという概念です。なぜこの2つが存在していると医療保険に市場原理が通用しなくなるのかに関しては、また別の機会に詳しくご説明したいと思います。

ここでは医療サービスに市場原理が通用しない理由に注目したいと思います。

1. 不完全で非対称な情報(Imperfect and asymmetric information)

医療サービスで自由市場が機能しない理由はたくさんあります。まずは不完全な情報および情報の非対称性です。患者さんは病院に行く前に自分がどのような検査や治療を必要としているか分からないことがほとんどですし、診断や治療の最中でも医療費がどれくらいかかるか分かりません。この状態では、医師にMRIが必要ですと言われたら「はい」と言うしかありません。仮に値段を確認することができたとしても、医学に関する知識が十分にないことが多いので、自分がMRIを撮影するメリットとその値段を天秤にかけて判断するのは困難です。これがテレビを購入するのと、医療サービスを購入するのとの違いです。テレビであれば、雑誌やインターネットで調べればおおまかな価格は分かりますし、ある追加機能があったらそのお金を払う価値があるかどうか自分で判断できます。医療サービスに関しては医療があまりに複雑で難解であるため、患者さんが判断することが難しいのが現状です。だからテレビは自由市場がうまく機能するのですが、医療は自由市場が機能しないのです。医療の情報の非対称性に関する論文としては、アカロフのレモン(1970年)が古典です。

2. 不完全な競争市場(Non-competitive market)

医療での競争原理は不完全です。東京や大阪などの大都市圏に住んでいない限り、地域に同じような機能の病院が1つしかない場合がしばしばあると思います。高度な機能を持った病院であれば、同じ地域で2つ以上の病院が存在しており、競争していることは珍しいと思います。このような選択肢があまりない状態では自由市場はうまく働きません。病気の種類にもよりますが、急性疾患であれば評判が良いからといって隣の県の病院にかかることは難しいです。慢性疾患であっても何時間もかけて隣の県の病院に通院するのはハードルが高いと思います。そういった意味では、医療サービスはローカルな市場であると言えます。競争原理が働かないので自由市場を導入しても効率が改善して医療費が下がることはあまり期待できず、独占企業(Monopoly)となった病院によって高い価格をふっかけられてしまうかもしれません(今の日本では診療報酬で価格は決まっていますが、これは仮に価格も含めて完全な自由市場になった場合の話です)。ちなみに、アメリカでは医療保険会社、病院ともに統合が進んでおり、独占化が進んでいて問題になっており、独占禁止法を適用するかどうかという議論が出てきています。

3. 多くの病気は緊急性が高く、予測不能である

病気の種類によっては緊急性が高いものも多いですし、多くの病気は予期不能ですので、じっくりと考えて、周りの人と相談して、慎重に選択することが難しいと考えられます。例えば胸痛で病院に行ったところ、急性心筋梗塞だと診断されたとします。例え隣町の病院の方が評判が良かったからと言って、その段階でそちらの病院に移ることは難しいのが実情だと思います。また痛みや呼吸苦などの症状があると、冷静な判断ができない可能性すらあります。これがテレビや自動車を購入するのと違う点です。このような条件下で自由市場を導入すると、やはり病院が価格を吊り上げたときに患者さんはNOということができず、後に高額の医療費を請求されるリスクがあります。

4. 健康保険による市場のゆがみ(Market distortion due to health insurance)

健康保険は国民の健康を守るという点ではとても重要なシステムですが、自由市場とは相性が悪いことが知られています。自由市場というのは売り手の設定した価格と、買い手の支払っても良い金額(Willingness-to-pay)とを天秤にかけて商談が成立するかどうか決まります。しかし、健康保険があるため3割しか買い手は支払わなくて良いとなると、健康保険がなかったときに希望するよりも多くの量の医療サービスを希望するようになります(モラル・ハザード)。そうすると、たとえ自由市場になったとしても、取り引きされる医療サービスの量は経済学的な最適点*よりも多くなってしまいます。

5. 外部効果(Externalities)

外部効果とは、ある人や企業の行動や経済活動が、他の人や企業に対して付随的な効果を市場機構を媒介することなく及ぼす現象である。例えばある工場で製品を作るために有害なガスを排出して空気を汚しているとします。この大気汚染はこの工場自身にはほとんど影響を与えなかったとしても、周りの住民は経済活動に一切かかわっていないのに被害をこうむります。これを負の外部効果(Negative externalities)と言います。医療に関しては正の外部効果(Positive externalities)があると言われています。感染症が分かりやすい例だと思います。もし医療サービスを十分に提供せずに、病気の人が街中を徘徊したり家に帰って家族に病気を移してしまう可能性があります。もし感染症自体を治療すれば、その人がハッピーになるだけでなく、周りの人もハッピーにすることができます。外部効果のあるサービスは自由市場に任せると良くない結果になることが分かっています。正の外部効果がある医療を自由市場に任せると、医療サービスを購入する本人に対するメリットには周りの人のメリットが含まれないため、需要が低めになり、ベストな状態よりも少ない医療サービスしか取り引きされなくなります。

*経済学的な最適な状態(Optimum)とは、限界利潤(marginal benefit)と限界費用(marginal cost)が一致する点のことです。日本語があまりに分かりにくいので英語のまま説明しますが、marginal benefitとはもう一単位のサービスを購入することで得られるメリットのことです。Marginal costとはもう一単位のサービスを作り出すために必要な費用のことです。この2つが交差するところが最適な状態であると考えられています。Marginal benefit (or marginal revenue) とMarginal costに関して詳しくはこちらをご覧ください。

marginal benefit marginal cost

 

 

 

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14件のコメント 追加

  1. Yusuke Tsugawa より:

    Maroさん、コメントありがとうございます。Handbook of Health Economicsが良い参考図書になるかと思います。誤字に関してもご指摘ありがとうございます。早速修正させて頂きました。

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  2. Maro より:

    わかりやすいご説明ありがとうございます!医療の場合はどういうゲームを考えるべきかに興味が湧きました. 参考文献等ご存知ですか?
    それと少し気になったのですが, 「モラル・ハザードとは、健康保険を持ているため実際に患者さんが支払う金額が本来の価格よりも高いため、」は, 高いためではなく低いため, ではないでしょうか?

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  3. カメ より:

    市場原理は医療を崩壊させる!!
    日本で叫ばれ続けている言葉かと思います。
    なぜ市場原理は医療に通用しないのか?
    一つ一つ説明していただいてよく理解ができました!!

    私は経済に詳しくありませんが、医療従事者として常々考えることがあります。
    日本では医療に市場原理が通用することはないと考えています。

    しかしながら、米国の医療制度は失敗しているのでしょうか。
    ①保険会社の監査が厳しく入るため、度を過ぎた医療はできません。
    ②低コスト、高効率を要求されるので、能力のない者は淘汰されます。
    ③不要な処置を行う、あるいは必要な処置がなされなければ訴訟となります。
    上記によりある程度の質は担保されているのではないかと考えます。
    民間保険を契約する経済力がなければ、切り捨てを受けることになります。
    逆に経済力があれば、通常診療と考えられている以上の診療が受けられることもあります。

    日本では強者だけが生き残り、弱者が切り捨てられることが悪とされます。
    日本人は「平等」「公平」という言葉が好きです。
    彼らは、経済的弱者が切り捨てられることを本当に悪だと思っているのでしょうか。
    実は、米国の医療問題は保険以外にも様々な問題がありますが、
    私たちが考えるより、彼らの中では、医療制度は成功しているのではないでしょうか。

    米国でも表向きは弱者を助けることが美徳とされるかもしれません。
    しかしながら、現実はどうでしょう。
    オバマ大統領は本気で、オバマケアを実現させようとしていたのでしょうか。
    選挙のための方便ではなかったのでしょうか。

    私の知る米国人は、裕福な者はアメリカでの生活を存分に楽しむ、
    そうでない者は、悲観し過ぎることもなく、毎日の生活を楽しんでいる。
    米国のミリオネアは、経済的弱者が切り捨てられることを、不快に感じることがあるのでしょうか。
    逆に、経済的弱者でアメリカンドリームを夢見るのはごく一部。

    日本人は、家族が床に伏していると、誰もが悲しみ、急変時に延命処置を希望します。
    米国人は、素直に自分と家族の病態を把握し、早々に延命処置をしないように希望してきます。
    最期の時もみなハッピーに過ごす人が多いです。
    肥満は寿命を縮めるから、食事を制限してくださいといくら説明しても、聞く耳は持ちません。
    彼らにとっては寿命を延ばすよりも、日々の生活・食事を楽しむことがよっぽど重要です。
    国民性があまりにも違います。

    米国は、本気で国民皆保険を強く望むのでしょうか。

    日本の医療はどうでしょう。
    医師の裁量権が非常に強く、どんな治療をしてもほとんど誰にも何も言われません。
    不要な投薬、不要な検査が多く、必要な治療と検査がなされません。
    まともな医療を行う医者は、ほんのひと握りです。
    大袈裟な言い方ではありません。
    一般の方が思っている以上に、ビックリするくらい日本の医療はひどいものです。

    一部の医者が善意で頑張ってプライマリーケアと先進医療を実践し、日本の医療を盛り上げています。

    どんなに専門的知識と技能を持って診療に当たっても、患者の全身をある程度管理できる
    研修を受けていなければ、患者を不幸にします。
    そういった患者さんを目の当たりにすると、残念でなりません。

    医者には当たり外れが大きいので、軽症でも重症でも単純にラッキーかアンラッキーかで運命は決まります。

    私は日本の医療に市場原理の導入は絶対にfitしないと考えますが、
    現状打開のためには様々な対策が必要かと考えます。
    医療政策学、経済学が学問としてだけでなく、日本医療の現状を変える一つのツールとなることを願っています。

    更新楽しみにしています!!
    長文失礼いたします!!!

    いいね

    1. Yusuke Tsugawa より:

      カメ様、コメント頂きありがとうございます。おっしゃる通り、アメリカの医療も日本の医療もまだまだ改善すべき点がたくさんあると思います。こういった情報共有、情報交換を通じて、国民の皆様に医療システムに興味関心を持っていただき、改善の一助となることができれば幸いです。

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  4. 福祉の一部分野でも同じことが言えそうですね。
    障碍者や老人の面倒を見るのはコストがかかる。でも、それほど数があるわけはないので、いい値で聞かざる負えない。
    障碍者や老人を預けることによって家族の負担が減る。
    情報の非対称性はいい例が思い浮かばなかったのですが、外部効果と数に関しては医療と同じことが言えそうです。

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  5. 渡邉比呂志 より:

    分かりやすく、広範な人が基礎知識として持つべきと想いました。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      コメントありがとうございます。アメリカの医療に関しては(日本語の文章では)とても誤解が多いので、アメリカでどのような医療改革が起こっているかを共有させて頂きたいと思いました。日本の医療のための一助となれれば幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。

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    2. Yusuke Tsugawa より:

      渡邉比呂志様、コメントありがとうございます。励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。

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  6. 五島光 より:

    医療経済学は門外漢なので、たいへん勉強になりました。

    「医療サービスに市場原理が通用しない理由」として5つ挙げられているのですが、これらの議論がまとまった論文や書籍などはあるでしょうか? このへんのことをもう少し調べてみたいです。

    いいね: 1人

    1. Yusuke Tsugawa より:

      五島様、コメントありがとうございます。私のブログに関しては、教科書および医療経済学者数名に話を聞いたことを自分なりにまとめたものになります。このようにシステマティックにリストアップされてるいるかどうかは分からないのですが、内容自体は全てHandbook of Health Economicsでカバーされています。医療経済学の教科書なのですが、ちょっと読みにくいのが難点です。

      http://www.amazon.com/Handbook-Health-Economics-Volume-2/dp/0444535926

      いいね: 1人

      1. Hikaru Goto より:

        教えていただいて、ありがとうございました。
        その本のことをちょっと調べてみます。

        いいね: 1人

  7. 松田 聖 より:

    医療に市場原理を持ち込むと希少病には治療の機会がなくなる。お金のある現役世代用の治療ばかり進み、お金のない幼年や老人の治療がすすままなくなります。ってこともあります。製薬会社も企業ですから、儲からない商売はしなくなってしまいますよ。

    いいね: 1人

    1. Yusuke Tsugawa より:

      松田様、おっしゃる通りだと思います。ただし、もしこのロジックを使った場合、それでは希少病と小児・老人の治療だけ国が面倒を見て、その他を自由市場で提供すれば良いのではないか?と言う人たちも出てくると思います。ブログにも書かせて頂いたように、「お金のある現役世代の医療」に関してですら、自由市場ではあまりうまくいかないのが現実だと思います。モラルハザードなどがその原因です。あとはどのように、規制と競争原理のバランスをとるかということだと思います。

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