「医療経済学」の4つの起源

ハーバード大学の医療経済学者デビッド・カトラーによると、医療経済学には大きく分けて4つの起源(Four strands of health economics)があります。医療経済学の全体像をつかむために、まずこれを説明させて頂きたいと思います。下記のリストの中の括弧内の名前はその領域の基盤となるような偉大な貢献をした人達の名前になります。

医療経済学の4つの起源

  1. 医療保険の理論(Kenneth Arrow, Rothschild/Stiglitz)・・・医療保険がどのように働き、人々の行動に影響を与えるかの理論です。
  2. 実証的分析 – 医療サービスの需要(Martin Feldstein, Joseph Newhouse)・・・実際のデータを用いたり、社会実験を通じて、現実の世界で医療サービスに対する需要がどのようなことによって規定されるかを検証しました。
  3. 健康の規定因子(Robert Fogel, Samuel Preston)・・・人の死亡率が低下し、寿命が延びた理由を検証しました。
  4. 健康資本(Health capital)(Gary Becker、Michael Grossman)・・・健康は消費されるものである一方で投資するべき資本であるという概念で、健康は「健康的でいられる時間」を延ばすことで生涯収入を増やしたり幸せに暮らすことにつながるストックであると定義されました。

それでは一つずつ説明していきましょう。

1. 医療保険の理論

Kenneth Arrowは医療経済学の父と呼ばれる人ですが、1963年に情報の非対称性の下に医療提供者、患者、保険者がどのように行動するかを説明する論文を発表しました。これは最も初期の医療経済学の論文であり、医療経済学と言う学問の誕生の瞬間でもありました。1976年にはRothschildとStiglitzが、情報の非対称性が存在する場合には、経済学的な均衡(equilibrium)は存在しないかもしれないということを証明しました。「存在しないかもしれない」と言うのはあいまいな表現ですが、医療のように情報の非対称性がある市場では、高リスクの人(例えば高齢者)と低リスクの人(若年者)で単一の均衡状態(pooled equilibrium)は存在しないことを証明しました。それぞれバラバラの均衡状態(separate equilibrium)は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないのですが、例え存在しても低リスクの人達は部分的な保険しか購入できません(全ての人がハッピーになることはありません)。これをRothschild-Stiglitz modelというモデルを用いて1976年の論文で証明しました。情報の非対称性というと、1970年のアカロフの「レモン市場」(ここでいうレモンとは果物のレモンではなくて質の悪い中古車のことを指します)(Akerlof 1970)が有名ですが、医療保険の分野ではこのRothschild-Stiglitz modelが有名です。

2. 実証的分析 – 医療サービスの需要

FeldsteinもNewhouseもハーバード大学の経済学者です。Joseph Newhouseは私の卒業したハーバード大学の医療政策学の博士プログラムを作った人ですが、1971~1982年に歴史的な社会実験をしたことで有名です。それはランド医療保険実験(RAND Health Insurance Experiment)と呼ばれる実験で、医療保険を無作為(ランダム)に人々に与えて、その人たちの行動を見ることで自己負担額が受診行動や健康にどのような影響を与えるかを見た社会実験です。これはランダム化比較試験(RCT)と呼ばれる方法で最も信頼度の高い研究であると考えられており、医学の分野では広く行われていますが、医療経済学の分野ではこれが初めてのRCTとなりました。Newhouseらは莫大な研究費を使って実験用の民間医療保険会社を立ち上げ、アメリカ国民に自己負担割合を①無料、②25%、③50%、④95%にランダムに割りつけられた医療保険を無料で提供し、3~5年間フォローアップしました。その結果、自己負担ありのプランに振り分けられた人は無料のプランの人よりも多くの医療サービスを消費したものの、この2つのグループで健康のアウトカムには差がありませんでした。注意しなくてはならないのは、実験が始まった段階で最も貧困で健康状態の悪かった6%の人々に関しては、30個中4つの項目で健康のアウトカムが悪化しました。つまり、自己負担を設定することは健康を害することなく医療費削減することができるけれども、貧困者かつ不健康な人達に関してはこの限りではないというのが結論です。これが世界中の多くの国で自己負担を設定している科学的根拠(エビデンス)です。2008年になって医療保険 vs. 無保険のRCTがオレゴン州で行われました(オレゴン医療保険実験)が、先進国で行われた医療保険のRCTは後にも先にもこの2つだけです。ランドとオレゴンの2つの医療保険実験に関してはまた別の機会にご説明いたします。

3. 健康の規定因子

ここ100年で驚くべきスピードで人の死亡率は低下し、寿命が延びたのはなぜだろう、ということを検証している医療経済学者たちがFogelやPrestonたちです(Cutlerもこの手の研究もしています)。現在考えられている仮説としては、(1) 疾患発生状況の変化(Disease incidence theory)、(2) 医学の進歩(Big medicine theory)、(3) 経済発展(Economic growth theory)、(4) 公衆衛生の発展(Public health theory)などが挙げられます。ざっくりと言うと、Fogelは経済発展、Prestonは公衆衛生、Cutlerは医学の進歩がもっとも死亡率低下に寄与していると考えています。一つずつ簡単に説明していきます。

(1) 疾患発生状況の変化(Disease incidence theory)・・・昔流行っていたペストがもう見られなくなったことなどが疾患発生状況の変化が主な規定因子ではないかという根拠ですが、Fogelによるとこれは10%しか死亡率低下に寄与していないということです。

(2) 医学の進歩(Big medicine theory)・・・医学の進歩の死亡率低下への寄与の仕方は時代によって異なります。1940年代には抗生剤の発見による感染症の死亡率の低下ですが、1960年以降は主に心血管疾患の死亡率の低下と低出生体重児の予後改善が主な寄与因子であるとされています。Cutlerはこの心血管疾患の死亡率低下のおよそ70%は医学の進歩によるであろうと著書に書いています。

(3) 経済発展(Economic growth theory)・・・Fogelはこれが主な理由でありとしていますが、経済発展の状況だけでは全ては説明できません。現在の中国と1930年代のアメリカは経済状態(一人当たりのGDP)は同じくらいですが、現在の中国の方が寿命はよっぽど長いです。経済発展は死亡率低下の寄与因子ではありますが、主な決定要因ではないと考えられています。このグラフを見て頂ければイメージが湧くと思います。例えば、途上国でこれを信じて(もしくはFogelを引用して)公衆衛生に関する公共サービスの予算を減らして、経済刺激政策へ予算を回すという政治家がいたら、上記のロジックよりそれが成り立たないことを説明してください。

(4) 公衆衛生の発展(Public health theory)・・・Prestonはこれが重要であると提唱しました。1854年にはJohn Snowがコレラの疫学研究をはじめて行い、1880年代には細菌理論(The germ theory of disease)が生まれました。Cutlerによると1940年代までは重要な寄与因子でしたが、それ以降はあまり寄与していないと考えられています。プレストン・カーブは有名ですので、見たことがある方も多いと思います。

Preston curve Lancet (2006)

Cutlerの著書「Your money or your life」によると、1940年代までは①経済発展、②栄養状態の改善、③公衆衛生の3つによって人の死亡率は低下し、寿命は延びたと考えられています。1940年以降は医学の進歩が最も大きな寄与因子であるとされています。1940~1960年は抗生剤の発見とワクチンの開発による感染症による死亡率の低下、そして1960年以降は成人の心血管疾患(70%ほど)と低出生体重児の予後が改善した(19%ほど)ことで、人口全体の死亡率は下がったと考えらています。ちなみにCutlerのこの本のメインメッセージは、アメリカの医療費はすごい勢いで上昇してきたけど、その分健康に関するアウトカムもどんどん良くなっているので、たくさんお金かけた価値はあった、という内容になります。

(注)これらの解析は全てアメリカの過去数十年のデータを用いて検証されていますので、他の国では寄与原因が異なると言うことも考えられます。

4. 健康資本(Health capital)

マイケル・グロスマンによると、健康がどのようにして人の幸福につながるかに関しては、3つのパターンがあります。一つ目は「消費」であり、人は健康であるだけで気分が良く、幸福に感じるため、この観点から健康は消費されるものである(健康は消費されることで直接的に幸福度を上げる)という考え方です。二つ目は、「投資」であり、人は(健康的な食事や運動、医療を受けることなどを通じて)健康を維持することで、病気にならずに活動的でいられる時間を延ばし、その時間を自分の好きなことに充てることで幸福になる(健康は投資を通じて間接的に幸福度を上げる)という考え方です。三つ目は、健康は「資本」であるという考え方です。人は、健康的な生活や医療を受けることで健康という資本、つまり「健康資本」をストックとして蓄積することができる一方で、加齢や不健康な生活によって健康資本は減少するという考え方です。

まずストックという用語の説明をします。ストックとはある一時点において貯蔵されている量であり、フローとは一定期間内に流れた量のことを表します。お金で言うと、毎月の給料がフローであり、銀行にある貯金がストックになります。

次に資本について説明します。経済学の世界では、資本とは長期にわたって収入やその他の有用なものを生み出す資産(生産手段)のことを指します。資本は大きく分けて、物的資本と人的資本の2つに分けられます。

  • 物的資本・・・原料、機械、建物などの生産手段のこと
  • 人的資本・・・知識、技能、健康など蓄積可能な人間の能力のこと。

健康が資本であると言うコンセプト自体は1770年代のアダム・スミスの頃からありましたが、シカゴ大学の経済学者のゲイリー・ベッカーによって人的資本がきちんと定義されたのは1960年代になってからです。そして、ベッカーの教え子であったマイケル・グロスマンが(ベッカーの影響を強く受けて)博士論文で書いた論文(Grossman 1972)で健康資本と言う考え方が生み出されました。

グロスマンによると、知識などの人的資本は生産性がアウトプットになるのに対して、健康資本のアウトプットは「活動的に過ごすことができる時間」であるため、この2つは違うものであると主張しました(別の考え方として、病気になったら労働できなくなってしまうので、健康は重要な生産手段であるという考え方もあります。この場合、アウトプットは他の人的資本と同様に生産性になります)。健康はストックであり年齢を重ねるとともに少なくなっていきます。一方で、健康的な食事、運動、予防医療などを通して投資することで、そのストックを増やすこともできます。

図. 健康資本のイメージ図

Health capital

(著者作成)

グロスマンの健康資本の考え方は、医療経済学研究において重要な理論的な支柱を打ち立てたとされています。例えば、それまではなぜ教育水準の高い人の方が健康水準が高いのかうまく説明できなかったのですが、健康資本によって説明可能となりました。これは教育水準の高い人の方が(低い人よりも)同じだけの時間や労力を投入しても、より効果的に健康資本を蓄積させることができる(例えば、医療者の説明を容易に理解することができ、より良い医療サービスを取捨選択できる)からだとされてます。

 

 

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