モラル・ハザード(Moral hazard)とゼックハウザーのジレンマ

モラルハザード(経済学用語)と「モラルの問題」がしばしば混乱して用いられているように感じます。モラル・ハザードとは保険などで守られており本当の価格に直面していていないため(自分の財布から全額支払わなくて良いので)、人々の行動が変わり、本来必要としているサービスよりも多くの量のサービスを希望してしまう現象のことを指します。モラルと言うと「悪いこと」というニュアンスがあるような印象がありますが、モラルハザードは別に良いことでも悪いことでもなく、価格とサービスの価値とがかい離しているために生じる現象に過ぎません。酔っぱらって救急車を呼んで病院に行きスタッフに暴言を吐くのは、「モラルの問題」であり、モラルハザードではありません。

以前のブログでもお書きしたように、医療保険に市場原理を適用してもうまくいかない理由は2つあり、それは①モラル・ハザード(Moral hazard)と②逆選択(Adverse selection)であると医療経済学では言われています。私の所属しているハーバード大学の医療政策学のプログラムでは、もし夜中に家で目を覚ましたら目の前にリチャード・フランク教授がいて、「医療保険で最も大事なことはなんだ?!」と聞かれたら、「モラル・ハザードと逆選択です!」と答えるようにという面白いたとえ話があるくらいこの2つは重要な概念であると考えられています。ちなみにリチャード・フランク教授はハーバード大学医学部の医療経済学者です。今回はこの2つのキーワードのうち、モラル・ハザードに関してご説明します。

(1) モラル・ハザードとは?

くり返しになりますが、モラル・ハザード(Moral hazard)とは保険などで守られており本当の価格に直面していていないため、人々の行動が変わり、本来必要としているサービスよりも多くの量のサービスを希望してしまう現象のことを言います。医療においては、医療保険によって支払う価格が市場価格よりも(市場原理の下で決められる価格よりも)低くなっているため、自由市場で患者さんが希望するサービス量(需要)よりも、多くのサービスを希望し、消費する現象のことを指します。日本でしばしば言われている「コンビニ受診」のことを経済学的用語ではこのように呼びます。ここで大事なのは、「モラル」という言葉がついているため、一見良くないこと(道徳上の問題がある行動)のような印象を与えますが、モラル・ハザードには善悪の概念はなく、別に悪いこと、好ましくないことであるとされているわけではありません。医療保険のようなシステムがあるときに起こるべくして起こる人間の行動パターンの変化であると捉えて頂ければ良いと思います。

Moral hazard

ここではモラル・ハザードを需要曲線(Demand curve)を用いて説明します。ミクロ経済学に関する需要と供給の関係に関してはこちらのブログをご覧ください。市場価格(P0)が医療保険が存在しなかった場合に患者さんが支払うサービスあたりの価格で、その時に患者さんが希望するサービス量がQ0になります。一方で、医療保険で3割しか自己負担しない場合に価格は「医療保険の下での自己負担額(P1)」が実際に患者さんが直面する価格になります。この価格は市場価格よりも低いので、患者さんはもっと多くのサービス量であるQ1の量を希望します。日本の病院の外来の再診料金はおよそ700円(P0)です。ある人が700円だったら2カ月に1回外来にかかりたいと思っているとします。もし医療保険のためこの人が実際に支払う必要があるのが3割の210円(P1)だったとしたら毎月外来にかかりたいと思っても当然だと思います(後述するように、実際には医療サービスの価格弾力性は-0.2~-0.3ですので、日本のように自己負担額が70%減になったら、他のサービスへの置き換えsubstitutionがないと仮定すると、需要は14~21%増加することが予想されます)。医療保険がなかったとしたら取り引きされる医療サービスの総額は「P0×Q0」の四角形ABFGの面積になります(総額=価格×量)。一方で、医療保険のためモラル・ハザードが起こると、取り引きされる医療サービスの総額は「P1×Q1」の四角形ACFHと増大します。実際に患者さんが窓口で支払う総額はDEFHですが、医療保険制度が差額であるACDEの部分を支払っていることになります。この場合、水色の三角形BCEを「社会便益の損失(Deadweight loss)」と呼び、DWLと略します。この部分は市場原理がうまく機能していないために生じている社会のムダ、もしくは失われている社会全体の幸福度であると理解して頂ければ良いと思います。モラル・ハザードが起こると経済学的な最適点よりも多くのサービスが取り引きされてしまい、そのため経済学的に最適な状態よりも社会全体の幸福度(社会便益*1)が下がってしまうことが、医療保険で市場原理がうまく機能しない原因の一つであると言えます。つまり適切な価格よりも「安すぎる」のです。

*1 個人の幸福度を定量化したもののことを経済学では「効用(utility)」と呼びます。効用というと何のことだか分からないのでこのブログでは幸福度と書きます。そして、この一人一人のutilityを足していって社会全体の総和にしたものが「社会便益(Social welfare)」です。ミクロ経済学の目的はこの社会全体の幸福度を最大化するような状態、すなわち「経済学的な最適な状態(Economic optimum)」にすることです。この経済学的な最適な配分のことを、経済学的に効率的である(Efficient)であると表現します。業務や経営で無駄がすくないという意味で一般的に使われる効率とは意味合いが違うので注意が必要です。

(2) モラル・ハザードが生じるのに必要な2つの条件

モラル・ハザードが発生するには2つの条件が必要であるとされています。それは、①不均一性(Heterogeneity)と②情報の非対称性(Asymmetric information)です。不均一性とは、同じ病気の状態でも最適なサービス量は異なると言うことを意味します。同じ心筋梗塞でも、患者さんの医学的に必要なサービスの量は異なりますし、人によって希望するサービス量は違います。情報の非対称性とは、保険者(健康保険組合)と患者さんや医師との間で持っている情報が異なることを指します。患者さんや医師はどれくらい病気になりやすいか分かっていますが、一般的には保険者はその情報を持っていません。もし情報の非対称性がなければ、保険料をリスクに応じて適切に設定することで、少なくとも理論上は上記のDWLは小さくできます。理論上はそうなのですが、実際に情報の非対称性が本当になくなった場合には、保険者が患者のえり好み(Risk selection)を行うことで逆に社会的便益が減ることもあるので、どう転ぶかは分かりません。

(3) ゼックハウザーのジレンマ(Zeckhauser’s dilemma)

医療保険とは基本的にゼックハウザーのジレンマという問題があると、ハーバード大学の医療経済学者リチャード・ゼックハウザー教授が1970年の論文で提唱しました。これは医療保険はモラル・ハザードと(経済学的な)リスク回避(Risk protection)の2つの相反する目的を達成する必要がある言うジレンマです。医療保険が必要となる理由はリスク回避であり、最大限にリスク回避するためには最大限の医療保険(Full insurance*2)でカバーしておく必要があります。そうなると人々は必要以上に医療サービスを消費してしまうというあまり好ましくない状態になります。一方で、モラル・ハザードを予防するためには医療保険が無い状態(No insurance)の方が良いということになります。このリスク回避とモラル・ハザードのトレードオフをするために、適切な医療保険のカバーする範囲というのはFull insuranceとNo insuranceの間のどこかになります。

Zeckhauser's dilemma

*2 経済学的なフルカバーの保険(Full insurance)とは、健康な状態のときに病気の状態の時に必要となるお金を取っておくことで、異なる状態での幸福度(utility)を一定にしている状態を指します。医療経済学的には、健康な時と病気の時の限界効用(Marginal utility)が同じになるような医療保険の量のことをFull insuranceと呼びます(Marginal utility in sick status = Marginal utility in healthy statusになるような状態のこと)が、詳細に関してはまたの機会にご説明します。

(4) 事前の(ex ante)モラル・ハザード、事後の(ex post)モラル・ハザード

モラル・ハザードには2種類あります。一つは事前のモラル・ハザード(ex ante moral hazard)で、もう一つは事後のモラル・ハザード(ex post moral hazard)です。事前のモラル・ハザードとは、医療保険があるといざという時に医療ケアが受けられると分かっているため、たばこを吸ったり、運動をしなかったりと、自分の健康ケアをあまりしないことを指します。病気になる前の段階でのモラル・ハザードですので、「事前の(ex ante)」という枕詞が付きます。一方で、事後のモラル・ハザードはいざ病気になった時に必要以上の量の医療サービスを購入する現象を示します。病気になった後の話ですので、「事後の(ex post)」と呼ばれます。後述するランド医療保険実験では、自己負担割合の存在によって事後のモラル・ハザードは顕著に抑制されたものの、事前のモラル・ハザードにはほとんど影響はありませんでした。つまり、自己負担額ありのプランに割り付けられると、受診回数や医療費は抑制された一方で、喫煙率や肥満度が抑えられるということはありませんでした。これらの「予防」に関しては自己負担割合だけではなく、その他の医療政策のツールを用いることが必要なのかもしれません。

(5) モラル・ハザードの科学的・経験的な根拠(エビデンス)

アメリカには民間医療保険、メディケイド(貧困者向けの医療保険)、メディケア(高齢者向けの医療保険)という3種類の医療保険があります。前二者に関してはモラル・ハザードに関する質の高いエビデンスがあります。民間医療保険に関してはランド医療保険実験(RAND Health Insurance Experiment)、メディケイドに関してはオレゴン医療保険実験(Oregon Health Insurance Experiment)という2つのランダム化比較試験(RCT)があります。ランド医療保険実験はアメリカを代表する医療経済学者であるジョセフ・ニューハウス教授によって1980年代に行われたRCTで、自己負担割合が小さくなればなるほど取り引きされる医療サービスの量は多くなる現象が認められ、医療におけるモラル・ハザードが証明されました。この実験からはいくつかの重要な知見が得られました。一つ目は、医療サービスの価格弾力性(Price elasticity)は-0.2~-0.3であることが判明しました。これは、自己負担の価格が10%上昇すると、患者さんが希望する医療サービスの量が2~3%下がると言うことを意味します。二つ目は、医療サービスよりも精神科・心療内科の医療サービス(主に外来の心理療法)の方が価格弾力性が高かったということです。身体疾患の治療の価格変動性が-0.3であったのに対して、精神科の医療サービスでは-0.8でした。つまり自己負担割合を下げた場合、身体疾患の治療が増えるよりもずっと大きい上げ幅で精神科サービスの需要が増大しました。三つ目は、自己負担割合の大きいプランに割り当てられた患者さんたちは、価値の高い医療サービスも価値の低い医療サービスも隔たりなく一律に購入するサービス量を減らしたということです。価値の低いサービスだけ減れば言うことないのですが、患者さんにとってメリッのあるサービスも一緒に切り詰められてしまうのが頭の痛いところです。この知見から、バリュー・ベイスド・医療保険(VBID; Value-based insurance design)という概念が生まれました。これは医療サービスの価値によって自己負担割合を変化させた医療保険のことを指します。つまりエビデンス・ベースドの医療などの価値の高い医療サービスでは自己負担額を低く設定することで、患者さんにより価値の高いサービスを選んでもらおうということです。

オレゴン医療保険実験はメディケイドを用いたRCTで、貧困者が医療保険でカバーされるようになると希望する医療サービスの量が増えることを証明しました。ランド医療保険実験では、自己負担割合が0%から95%までのグループに割り付けられたのですが、倫理的見解から自己負担100%(無保険車)のグループを作ることができませんでした。オレゴン医療保険実験では、医療保険を与えられなかった群は無保険者であったため、ランド研究所の実験からの知見を補完する形になりました。オレゴン医療保険実験はハーバード公衆衛生大学院のキャサリン・ベイカー教授とMITのエイミー・フィンケルスタイン教授という二人の医療経済学者によって行われた研究ですが、無保険者に医療保険を与えると、医療サービスの需要は増加し、医療サービスによって貧困になるリスクは減り、救急外来の受診回数は40%ほど増加し、うつ病になるリスクは減るものの、身体的な健康指標(血圧、HbA1cで測った血糖値、コレステロール値)の改善は認められないという結論でした。

メディケアに関しては前二者ほどの質の高い研究はありません。RCTは行われておらず、観察研究から得られた知見では、メディケアは7日死亡率の1%ポイント(変化率でいうと20%)の低下と相関があり、この効果は入院から9ヶ月後まで見られたと報告されています。残念ながらこの研究はRCTほど質の高い研究ではないため、あまり確信的なことは言うことができません。

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