医師誘発需要(Physician induced demand)

医師誘発需要(Physician induced demand)(以下、PID)とは、供給者誘発需要(Supplier induced demand)とも呼ばれますが、患者・医師間の医学知識に対する情報の非対称性を利用した医師の裁量的行動によって誘発される医療サービスの需要のことです。ハーバード大学の医療経済学者であるトーマス・マグアイア教授によると、患者さんに利益があるように需要が誘発された場合はPIDとは呼びません。つまりPIDとは、医師が患者さんの利益に反すると理解(解釈)していながら、患者さんに対する説明などを通じて、患者さんの医療サービスに対する需要を引き出すことを指します。

1970年にハーバード大学のマーティン・フェルドステイン教授がはじめ実証研究で医師数と医師報酬に正の相関があることを発見し、スタンフォード大学のヴィクター・フュークス教授がこれを説明する理論としてPIDを発展させました。今までに行われた多くの実証研究ではPIDは存在するというものと、存在しない(もしくは存在するがその影響は極めて小さい)とするものが混在しています(Hennig-Schmidt, 2011Van Dijk, 2012)。ちなみにPIDの研究の難しい点として、PIDと患者自律的需要(Patient initiated demand)を区別することが困難であるということがあります。患者自律的需要とは、人口当たりの医師数が増えた場合に、医療サービスへのアクセスが向上することで、患者さんが実質的に直面している価格が低下し、その結果として需要が増大することを指します。これは患者さんが自分の意思で需要を増大させているので、医師による”誘発”ではありません。この2つの意味合いは大きく異なるのです。

なぜPIDを研究することが重要かと言うと、これが存在しているのと存在していないとで、人口当たりの医師数が医療サービス価格に与える影響が逆転するからです。通常の市場においては、供給者の増加は競争を促進し、価格を低下させます。よって、もし市場原理が当てはまるのであれば、その地域における医師の数が増えれば、競争が激化して医療サービスの価格は低下します(これは医療サービスの価格が市場で決まっていると仮定した場合です。日本の場合はもちろん診療報酬制度で決まっているので価格への影響はありません)。一方で、もしPIDが実在しているのであれば、地域の医師数の増やすと、患者さんの医療サービス需要の増加が誘発され、医療支出を増大させることにつながります。

分かりやすいように例を用いてご説明いたします。ある若手の医師がアルバイトで夜間の救急当直をしていたところ、その病院の夜間の救急外来に健康な若い男性が発熱、咳、痰で救急車で来院しました(もちろん本来ならば救急車を使うべきではありませんがこれは実際にありうるケースだと思います)。問診で基礎疾患もなく経口薬(飲み薬)の抗生剤で外来治療できることが分かりました。話を聞くと仕事を休んで家で休養することもできるようであり、外来治療がこの患者さんにとってベストであると医師は解釈しました。しかしながら、このバイトを引き受けた時に、病院の院長から「ベッドが空いているので、救急車で来た患者さんはできるだけ全例入院させるように」との指示をもらっていました。この医師は悩んだあげく、「一応外来でも治療可能かと思いますが、入院して点滴の抗生剤を使った方が確実だと思います。入院しませんか?」と患者さんに説明しました。ここでは、患者さんの利益に反して、(説明やアドバイスを通じて)患者さんの医療サービスに対する需要を誘発していることになるのでPIDに該当します。もちろんこれが高齢者の肺炎で、入院加療することが患者さんにとってもベストである場合にはPIDには当てはまらなくなります。

CTIを持っているクリニックで、これらの稼働率が低いと赤字になってしまうと言う理由で検査への閾値を下げてできるだけ幅広い症例でこれらの検査器機を使うことも、患者さんの利益に反することになりますので(被ばくをしてしまうという健康上の不利益だけでなく、無駄な医療費を支払うと言う経済的な利益も考慮します)、PIDになります。日本の診療報酬制度でMRIの単価が下がった時に、MRIを撮影する対象を増やすことで収入を維持したり(Income effect=所得効果と呼ばれます)、CTやPETなどの他の検査を代わりに増やすこと(Substitution effect=代替効果)も、本当に患者さんのメリットにつながっていなければ、もちろんPIDとなります。こうやって考えていくと、たとえ実証研究で十分に証明されていない(エビデンスが十分ではない)とはいえ、実際にはPIDが存在していると考えるはおそらく私だけではないと思います。

PIDは医師のUtility function(日本語では「効用関数」と訳したりしますが、要は”幸福度”を表現する数式のことです)を、①医師の患者さんの健康状態を改善することによる達成感と、②医師自身の経済的な幸福、の2つ和で説明したシンプルで美しいセオリーであったのですが、残念ながらそれをサポートする実証研究には観察研究しかなく、エビデンスの強さは不十分です。支払い方式が包括支払いから出来高払いに代わったときに医療サービスの量が増えたとしても、それを患者さんの利益につながる部分(これはPIDではありません)と、患者さんの利益につながらない部分(この部分がPIDです)とを正確に区別することが困難です。最近の研究結果によると、実は医師自身の経済的なインセンティブはあまり重要ではなく、臨床的エビデンスによって支持されていない医師の治療方針に関する「信じていること」が一番重要なのではないかと言われています。まとめると、具体的にPIDがどれほど医療サービスの提供量や医療費にインパクトを与えているかに関してはまだ結論がでていないと言うことができます。

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