製薬産業と医療経済学(1)

今までのブログで医療経済学とはざっくりと言うと「なぜ市場原理が医療に通用しないのか?」を学ぶ学問であるということと、医療サービスと医療保険の両方において自由市場はうまく機能しない(市場の失敗(Market failure)と呼びます)ということをご説明しました。今回は製薬産業(Pharmaceutical industry)の特殊な点を医療経済学的な観点から見てみたいと思います。今回の論点はハーバード大学の医療経済学者ジョセフ・ニューハウス教授の授業用スライドを元にしています。

1.高いR&D(研究開発)費用、安いMarginal cost(限界費用)

高いR&Dコストと安いMarginal costが製薬産業を理解する上で最も重要なポイントであると考えられます。R&D(Research & Development)コストとは研究開発費用のことで、新しい薬剤を開発するのに必要なお金になります。研究開発中の薬のうち臨床試験を通過して市場に出回るものはごくわずかですし、一説によると薬のために新しい分子を開発するのにおよそ800億円ほどかかるとも言われています(※R&Dコストに関しては様々な推定値があります)。薬が実際に製品化されて市場に出回った時にはこの研究開発にかかったコストを「取り戻す」必要があります。Marginal cost(以下、MC)とは日本語では「限界費用」と呼ばれ、生産量を一単位だけ増加させた時の総費用の増加分のことです。これはつまり、最後の一錠の薬を生産するのに必要なコストのことになります。薬は開発には莫大なお金がかかりますが、実際に生産体制に入ると、その生産コストは非常に安いのが特徴です。もちろん生物学的製剤のようにMCが高い薬もありますが、スタチンや降圧薬など今最も多く使われいる薬のMCは1錠あたり数十円しかしないような非常に安いレベルになります。テレビやパソコンなど、通常の自由市場で取り引きされる商品の場合には、商品の価格がMCよりも少しでも高ければ利益が生まれます。よって「価格≒MC」の時に市場で取り引きされる量は最大化され、多くの売り手が利益を上げ、多くの買い手が自分の買いたい値段で商品を購入することができるようになるため、みんながハッピーになります。しかし実際には、新薬にはパテント(特許)があるため、薬価は自由市場で決まらず、(他の業界と比べると)製薬会社側が価格に対して大きな影響力を持っています。そして、R&Dコストが薬の価格に上乗せされるため、薬剤の価格はMCよりもかなり高くなっています。

では「薬価=MC」にしたら全てはうまく行くのでしょうか?問題はそれほど簡単ではありません。ニューハウスによると、薬の適正価格を理解するには、動的効率(Dynamic efficiency)と静的効率(Static efficiency)の2つを理解する必要があります。静的効率とは、「薬価=MC」となった状態のことです。この場合、薬の購入者は安い価格で薬が購入できるためハッピーになり、総医療費は低くなることが予想されますが、製薬会社はR&Dコストを取り返すことができなくなり、次の新しい薬の研究開発にお金を回すことができなくなります。一方で、動的効率とは「薬価>MC」の状態であり、MCに適切なR&Dコストを上乗せして薬価を設定することで達成できます。最適な薬価である、動的効率的な価格(Dynamically efficient price)とは、「薬価が十分高く設定されており、R&Dに使用された最後の1円が他の用途で用いられた場合と比べて同等かそれ以上のメリットをもたらす価格」のことを指します。一番の問題は、この「動的効率的な価格」は誰にも分からないと言うことです。適正価格は我々には分からないので、我々が値段を決めるよりも、製薬会社にパテントという権利を渡して、市場の中でこの動的効率的な価格を決めてもらおうと言うのがアメリカでの薬価の決まり方です(一方、日本では診療報酬制度で決まっているので薬価は市場では決まりません)。動的効率(薬価>MC)と静的効率(薬価=MC)のどちらを採用するかは、現在の世代と将来の世代との間のトレードオフになります。静的効率(薬価=MC)にすれば、現在の世代は安い薬価、ひいては安い医療費という恩恵を受けることができます。その一方で、薬の研究開発のスピードが減退するので、将来の世代は我々が体験したような医療の発展による恩恵を受けることができなくなってしまいます。動的効率(薬価>MC)にすれば、未来の世代は医療の発展による恩恵を受けることができますが、現役の世代は薬にそれなりに高いお金を支払う必要があります。さらには、製薬会社には株主がいて利益を出さないといけないので、動的効率的な価格よりも薬価が高くなってしまう(薬価>>MC)可能性もあります。そうなると製薬会社はハッピーですが、患者さんや国民はアンハッピーになってしまいます。R&D、イノベーションを抑制しない範囲で、いかに薬価を低く抑えるかが重要になってきます

このほかにも製薬産業が市場原理の通用しない特殊なマーケットである理由は以下のようにいくつかあります。次回以降に残りをご説明したいと思います。

  • パテントにより市場にゆがみが生じる
  • R&Dコストは固定費用(Fixed cost)である
  • 製薬産業はハイリスクである
  • 製薬業界には2種類の利益率の計算方法がある

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