前回に引き続き、製薬産業を医療経済学的な観点から見てみたいと思います。前回のブログでは政策産業の最も重要な特徴の一つである、高いR&D(研究開発)コストと安い限界費用(Marginal Cost)に関してご説明しました。今回は残りの特徴をまとめてお話しようと思います。
2.パテント(特許)と医療保険による二重の市場のゆがみ
新薬の開発には、予期せぬ副作用などの不確定要素が多くあるため、莫大な予算と時間が必要になります。そのため、新薬の開発にたどり着いた開発者の権利(知的財産権)を守るため、パテント(特許)が認められています。日本では、特許庁に特許出願した日から20年間がパテント期間になります。医療用医薬品の場合は研究開発に要した期間のうち、治験に要した期間と新薬の承認審査に要した期間が「特許期間の延長」の対象となり、最長で5年間延長されます。このパテント期間が終わるとジェネリック医薬品(後発品)が市場に参入してくるため、薬の価格が大きく下がってしまいます。一方で、それまでのパテント期間中は他の企業が同じ薬を作ることができないので、独占市場(Monopoly market)になります。競争が存在しないので、売り手である製薬会社が価格に大きな影響力を持つことになります。これが製薬業界に関して自由市場が機能しない一つの理由です。これに加えて、医療保険が輪をかけて市場をゆがめてしまいます。医療保険のため買い手にとっての薬の値段は実際の値段よりもずっと低いものになります(日本では高齢者と子供を除き、薬の値段の3割しか患者さんは負担しません)。医療保険は平等な社会を達成するためには必要なものなのですが、その一方で、市場をゆがめてしまい自由市場がうまく機能しない原因にもなります。ちなみに、日本では薬価が自由市場で決められているわけではありません。日本では薬価は、中医協(中央社会保険医療協議会)における製薬会社と厚労省との交渉の末に決まっており、その結果として診療報酬表において薬価は定められて(固定されて)います。時々、薬価を自由市場で決めさせたら競争が活発になって価格が下がるのではないか、という議論が出てきますが、上記のような理由により自由市場はうまく機能しないと考えられ、実際にはMonopolyによって薬価が今よりも高くなるというシナリオが考えられます。
パテント制度は、薬価が「動的に効率的な価格(Dynamically efficient price)」を近似させることを目的として導入されている制度なのですが、残念ながらこの近似がうまくいっていないません。我々には、この動的に効率的な価格を知る方法がないため、パテント制度と市場を組み合わせればそれが達成できると期待されているのですが、実際には思い通りにはなっていないようです。
3.R&D(研究開発)コストが上昇すると開発される新薬の数が減る
R&Dコストは固定費用(Fixed Cost)のため、R&Dコストが上昇しても(少なくとも理論的には)薬価は上昇せずに、開発される新薬の数が減ると言われています。ここで少しおさらいしましょう(詳しくは以前のブログをご覧ください)。薬などの商品を作るのに必要はコストには固定費用(Fixed Cost; FC)と変動費用(Variable Cost; VC)の2種類があり、この2つを組み合わせることで総費用(TC; Total Cost)が計算できます。薬の生産される量をQとすると、 TC = FC + Q×VC の関係が成り立ちます。限界費用(Marginal Cost; MC)とは最後の一つの製品を作るのに必要なコストのことですが、数学的には
Marginal Cost (MC) = ΔVariable Cost (VC) / ΔQ
となります。Δ(デルタ)とは変化量を表しますが、ΔVC/ΔQはグラフの傾きを意味します(微分方程式で求めます)。変動費用(VC)とは生産量とともに変化する費用のことですので、VCの縦軸に、生産量(Q)を横軸に描くと、そのグラフの傾きが、最後の一錠の生産コストであるMCとなります。この式を見て頂くと分かるように、MCの計算式には固定費用(FC)は含まれていませんので、FCが上がろうが下がろうがMCには影響を与えません。そして、以前のブログでもご説明したように、MCよりも少しでも価格が高ければ利益がでるので、企業にとって利益が最大化するのは「MC≒価格」の時となります。よって「価格≒ΔVC/ΔQ」となり、この式にももちろん固定費用(FC)は含まれないので、固定費用であるR&Dコストは薬価に影響を与えないと考えられています。よってR&Dコストが上昇しても薬価が高くなるわけではなくて、代わりに開発される薬の数が少なくなると考えられています。逆にR&Dコストを下げても薬価は下がらずに、開発される新薬の数が増えると予想されます。
4.製薬産業はハイリスクである
製薬産業はハイリスクです。第I相試験までたどり着くことができた薬のうち、実際に商品化されて市場に出回るのはわずか1/5だと言われています。新しい薬の分枝の開発には平均800億円ほどかかるとも言われています(複数の推定値が存在しているため正確ではありません)。これほどハイリスクな産業であるからこそ、パテント制度によって開発した薬から十分な利益を得ることが制度として保証されているのです。ローリスクの産業であれば、これほど手厚く保護する必要もないと考えられます。
5.製薬業界には2種類の利益率の計算方法がある
製薬会社は一般市民に向けて公開する利益率と、ウォールストリートで株主や投資家に説明する利益率の2種類があります。前者のことを経済学的な利益(Economic profit; EP)、後者を会計上の利益(Accounting profit; AP)とそれぞれ呼びます。製薬会社はAPが高いため、しばしばメディアなどから利益を上げ過ぎであるという批判を受けることがありますが、EPの方を見てみると他の業界と変わらない(Return + 1-3 percentage points)のが特徴です。 これは利益の計算式でR&Dをどうやって用いるかによって変わってくるのですが、我々は製薬会社は儲けすぎという話を聞いた時には鵜呑みにせずに、APのことを言っているのかEPのことを言っているのかを確認する必要があります。