(写真:Gage Skidmore/クリエイティブ・コモンズ表示 2.0 一般)
2016年11月8日にアメリカ大統領選挙が行われ、ヒラリー・クリントンを破りドナルド・トランプが勝利しました。トランプは大統領になった「第一日目」にオバマケアを撤廃すると明言していましたが、トランプが大統領になることでアメリカの医療はどのような影響をうけるのでしょうか?ハーバード公衆衛生大学院のアシシュ・ジャ教授は、「おそらく宣言通りトランプはオバマケアを撤廃するだろう。」と言っています。一方で、著名な医療政策学者であるドナルド・バーウィック氏は、「オバマケアを撤廃したら2,000万人もの無保険者が生まれる。そんなことは政治的に可能とは思えない。」とコメントしています。ハーバード大学の教授陣の間でもこのように意見が割れていることからも分かるように、不確定要素が多いというのが現状です。では、トランプが大統領になったらアメリカの医療は実際にはどうなるのでしょうか?
1.トランプと医療政策
選挙戦を通じて、トランプは医療にはそれほど関心を示していませんでした。もちろん他の多くの共和党員と同様にオバマケアを撤廃すると主張はしていましたが、演説などではあまり積極的にオバマケアに言及することはありませんでした。潮目が変わったのは選挙直前の2016年10月です。オバマケアで新たに設立された、政府によって規制された医療保険市場である「エクスチェンジ(Exchange)」における保険料が2017年度に25%も上昇するというニュースがメディアの一面を飾ったのです(註)。オバマケアをターゲットにして攻撃することで選挙戦を有利に進めることができると考えたトランプ陣営は、トランプが大統領になったら「第一日目」にオバマケアを撤廃すると積極的にアピールするようになりました。この戦略は奏を功し、オバマケアの保険料上昇はクリントン陣営にとって大きな痛手になったと言われています。
ではトランプの医療政策はどのようなものなのでしょうか?トランプは公約として以下の7つを挙げています。
- オバマケアを撤廃する。医療保険に加入しない人の税金が高くなる制度である「個人加入義務化(Individual mandate)」を廃止する。
- 保険会社は州をまたいで医療保険を売ることができるように制度変更する。
- 個人の医療保険の保険料を税金控除の対象にする。
- 医療貯蓄口座(Health Savings Account;HSA)を導入する。HSAとは、税控除によって個人の医療費用の貯蓄を推奨し、病気やけがのときにはその貯蓄から医療費を支払うようにする仕組みのこと。
- 医師や病院に医療の価格に関する透明性を高めることを義務付ける。
- 各州にメディケイド(貧困層向けの公的医療保険)に必要な予算をそのまま移譲し(ブロックグラントと呼ばれる)、使い方の詳細は各州に任せる。
- 薬剤の市場へ自由参入を認め、海外の薬を輸入することを許可する。
実はこれらは何一つとして目新しいものではありません。何らかの形で他の人によって提唱されてきていた政策を寄せ集めているに過ぎません。この中で最も重要なのは一つ目のオバマケアの撤廃です。残りの6つの政策に関してはその影響は限定的であると考えられています。
2.トランプはオバマケアを撤廃できるのか?
結論:トランプはオバマケアを「全面的に撤廃」することはできない
実際にトランプがオバマケアを撤廃することができるのでしょうか?ここでカギとなるのは上院の議席数です。今回の選挙によって上院は48議席が民主党、51議席が共和党になりました(図1)。共和党が民主党の協力を得ずにオバマケアを廃止するには2/3以上の議席、つまり60議席必要です。60議席に達していない場合、民主党は議事妨害をすることで時間切れに持ち込むことで、共和党が出してくる法案を廃案にすることができるのですが、60議席あると共和党は強行採決することでそれが回避できます。トランプがオバマケアを撤廃しようとしても、共和党が強行採決に必要な60議席を確保していないため、民主党によって上院で廃案に持ち込まれると予想されています。つまりトランプは民主党の協力を得ることなくオバマケアを「全面的に撤廃」することはできません。
図1.アメリカ合衆国の上院の議席数
でも「財政調整」によってオバマケアを骨抜きにすることはできる
トランプは、「財政調整(Budget reconciliation process)」という手続きを使うことで、オバマケアを骨抜きにして、実質的に機能不全の状態に持ち込むというシナリオが有力です。財政調整とは、既存の法律の歳出と歳入に関わる部分だけに変更を加える方法であり、過半数の50議席があれば可能です。実際に、2015年にこの財政調整によってオバマケアを実質的に撤廃しようという動きがあり、これは上院・下院ともに通過したもののオバマ大統領が拒否権を発動したため実現しなかったという経緯があります。トランプが大統領になった後に同様の法律を通そうとすれば、今回はトランプが拒否権を使わないため、オバマケアに大幅な変更を加えることができると考えられます。
では財政調整でオバマケアはどのように変わるのでしょうか?2015年の例では、保険料に対する政府の補助金、個人加入義務化、雇用者の従業員への保険提供義務(Employer mandate)など、オバマケアのうちお金に関わる部分の多くが含まれていました。これらに関しては、トランプは財政調整を用いることで大幅な変更を加える可能性があります。保険料に対する補助金や個人加入義務が廃止されれば、保険料は高騰して、エクスチェンジから保険会社は撤退し、エクスチェンジは消滅してしまうと考えられています。
一方で、オバマケアのうちお金に関わらない部分は財政調整で変更を加えることができません。オバマケアのうち、基礎疾患があると言う理由で保険加入を拒否することを禁止する条項や、不健康な人に高額な保険料を設定することを禁止することは影響を受けません。医療の質に対する支払いなど、その他多くの構造的改革に関しても財政調整は無力です。
オバマケア導入に後ろ向きな姿勢を取ることでさらに弱体化させる
オバマ政権はオバマケアを広めることに多くの労力を割いてきました。この「努力」を止めることで、実質的に制度をさらに弱体化することも予想されます。例えば、エクスチェンジにおける政府の補助金の支払いを消極的にすることで、エクスチェンジにおける保険料が上昇し、保険会社がプランを提供しなくなるということが考えられます。アメリカ合衆国保健福祉省(日本の厚労省に相当する省庁)の長官や財務省長官もトランプが任命することになるため、オバマケアを広める推進力はかなり弱まる(実質的にゼロになる)と考えられます。
3.トランプが大統領になることでアメリカの医療はどうなるのか?
このように、トランプはオバマケアを根本的に撤廃することはできません。しかしトランプが大幅な変更を加えることでオバマケアを骨抜きにすることで、エクスチェンジは消滅してしまい、メディケイドの拡大もかなり不十分なものになると思われます。その結果、2,200~2,500万人が医療保険を失い、2018年には政府は400億ドルの損失になると推定されています(Jost, 2016)。しかしそのような変更が実際に導入されるまでに2年ほどの時間がかかると言われているので、変化はすぐには起こりません。いずれにしても、オバマケアによって国民皆保険制度の達成を目指していたアメリカですが、トランプが大統領になることによって大きく後進すると考えられています。
ここで注意が必要なのは、トランプがオバマケアを骨抜きにすることなく、小幅な変更にとどめて、名前を「トランプケア」と変えて継続するという可能性もあるということです。変更を加えた部分に対して代替の制度を用意しないと制度が歪んで大きな問題を引き起こすことになります。そしてそれによって生じた混乱が表面化すると、トランプの大統領としての資質が問われ、政治生命が危険にさらされるリスクがあります。トランプは大統領になって早々にリスクを取りたくないと考えるため、代替制度が用意できるようになるまでしばらくはトランプは大幅な変更を加えない可能性もあり、どこまでトランプが強引にオバマケアの廃止を進めるかに関してはまだ分かっていない点も多いと言うのが実情です。トランプとオバマケアの動向に引き続き注目していきたいと思います。
(註)注目すべきなのは、選挙前に保険料が「25%増」と言う数字が独り歩きしてしまったという事実です。確かにエクスチェンジの保険料は平均すると25%上昇したのですが、これは政府の補助金によって保険料が割引になる前の数字です。補助金を考慮すると、実際にはほとんどの国民は前年度と同額の保険料のプランに加入することができることは明らかでした。さらには、多くのアメリカ人は、メディアによる報道の結果、あたかもオバマケアのせいで全ての医療保険の保険料が25%増加するようなイメージを持ってしまいました。大多数のアメリカ人は、雇用者を通じて民間医療保険を購入しているのですが、その保険料は平均すると6%しか上昇しませんでした(National Business Group on Health, 2016)。アメリカの保険料はオバマケア導入前から毎年これくらい上昇していたので、オバマケアの保険料に対する影響はほとんど無いことが分かっていました。それにもかかわらず「25%増」という数字が独り歩きして、多くのアメリカ人がオバマケアのせいで自分達の保険料は来年大幅に上がると誤解してしまいました。