今話題の「沈みゆく大国アメリカ」を読んで

Shizumiyuku

日本でジャーナリストの堤未果氏の「沈みゆく大国アメリカ」が売れているという話を聞き、本を読ませて頂きました。エッセイとして読む分には非常に読みやすくて、ストーリーも面白かったのですが、内容に関しては事実誤認が多く、ミスリーディング(Misleading = 人を惑わす、誤らせるもの)な記載が多いと感じました。オバマケア(アメリカのオバマ大統領が2010年に導入したアメリカの医療改革制度)のことを日本の人達が誤って理解してしまわないようにという願いも込め、私のこの本を読んで感じた3つの問題点をご説明させて頂きます。

問題点①:オバマケアに関する数多くの事実誤認もしくは歪曲

一つ目は、オバマケアおよびアメリカの医療制度に関する数多くの事実誤認です。著者のリサーチが不十分であったのか、(オバマケアは悪者であるという)まず結論ありきのストーリーラインに合わせるために意図的に事実が歪曲されているのかは分かりませんが、3~4ページに1つはオバマケアに関する間違った説明がありました。オバマケアは高所得層に負担増を求め、貧困層の医療サービスへのアクセスを改善するようにデザインされた制度です。格差の縮小に寄与することこそあれ、中間層の負担を大きく増やすことはありません。しかしながら、この本ではオバマケアはお金持ちを益々お金持ちにするものであるかのように描かれてしまっています。おそらくその方が刺激的で、読み物として面白いからだと思います。事実誤認を全て列挙することはできないのですが、いくつか具体例を挙げてみたいと思います。

  1.  この本では「オバマケアは民間医療保険会社がデザインした法案で、保険会社が利益を上げられるようになっている」と説明されていますが、これは誤りです。オバマケア導入以前までは、民間医療保険会社は保険料を自由に設定することができていましたが、オバマケア導入に伴って導入されたMedical Loss Ratioという制度により、徴収した保険料の80~85%以上を医療サービスの形で被保険者に還元しなくてはならなくなりました。それ以上の利益を上げてしまった場合、返金の義務が生じます。要するに、利益率の上限が15~20%に設定されてしまったのです。そのような法律が医療保険会社のメリットになっているわけがありませんし、民間保険会社が法律のデザインに関わっていたらこのような不利な仕組みになるはずがありません。オバマ大統領は「政治的判断」によって製薬会社にはあまり痛み分けを求めませんでしたが(製薬業界を味方につけることで、他の政治的プレーヤーとのバランスを取った)、その他のプレーヤーである保険会社や病院には皆保険制度を実現するために必要となる財源を確保するために、痛み分けを求めたというのが実際のところです。
  2. この本では、オバマケアは中間層の負担を増やし、労組を苦しめるという記載が複数あります。しかしながら実際には、オバマケアは高所得者に負担増を求める一方で、貧困層に医療サービスを給付することを目的とした法律です。著者は高額な医療保険に対して2018年より導入されている「キャデラック保険」に対する税金が労組を苦しめると説いていますが、この税金はあくまで高所得者に対する「ぜいたく税」です。アメリカでは医療保険料は税金控除の対象であったため、高所得者は税金対策として非常に高額な医療保険を受けていました(そのため、税金の名前に高級車の代名詞である「キャデラック」の名を冠することになったのです)。これによって中流階級の方が高所得者よりもより高い割合の税金を支払っているという問題があったため、税金控除の効果を弱めるという意味合いを持っているのがキャデラック保険に対する税金です。高所得層にとって負担増になることはあるものの、中間層への影響はほとんどないとされています。
  3. 高所得者に対するメディケア税の増税が、あたかも中流階級の家計を直撃するかのように説明されていますが、これも誤りです。本文中にもあるように“家計年収が合計25万ドル(2500万円)の夫婦”(102ページ目)が増税の対象になります。アメリカでも日本でも家計収入2500万円の夫婦は高所得層であり、中流階級とは呼びません。
  4. 著者は、アメリカでも民間医療保険会社に依存しない統一された公的保険による医療保険制度が良いと言っている人たちがいるが、オバマ陣営がそれをシャットアウトした、と説明されています。しかし実際には、オバマはPublic optionという公的保険(メディケア)と民間保険を同じ土俵で戦わせて、民間保険会社をマーケットから排除するような仕組みを導入しようとしたのですが、法案の議会通過の過程における政治的妥協としてPublic optionは排除されてしまったのです。アメリカ全土で単一の公的保険制度であるメディケア(高齢者と障碍者向けの公的医療保険)と民間保険会社が競争すれば、メディケアが勝つことは火を見るより明らかでした(経済学者ポール・クルーグマンもこの方法を推奨していました)。オバマ大統領は民間医療保険会社を優遇するために民間に依存したシステムを作ったのではなくて、政治的妥協としてそうせざるを得なかったのです。

問題点②:オバマケアはアメリカの医療システムの不備を直すものであり、改悪ではない

二つ目は、因果関係に関する誤った理解です。著者はあたかもオバマケアが格差を助長し、“国家解体”に寄与しているかのような主張をしていますが、著者が指摘しているアメリカの医療の問題点はオバマケアと全く関係がないものです。オバマケアが導入される前からあった問題点であり、オバマケアが導入されようが、されていなかろうが、存在していた数々の問題点を、あたかもオバマケアによる悪影響かのように書かれていますが、これは間違いです。例えば、著者は“一粒10万円の薬”であるC型肝炎に対する新薬ソバルディのことを問題視していますが、この薬の開発とオバマケアは何の関連もありません。医療費が個人の破産の原因ナンバーワンであることもオバマケア導入前から存在していた問題です(国の医療費高騰はむしろ近年は鈍化していることが分かっています)。「オバマケアが導入されていなかった場合にはその問題は起こらなかったのか?」というCounterfactualの考え方を理解すれば、著者が論じていることのほとんどがオバマケアによるインパクトではないことが分かって頂けると思います。オバマケアはアメリカの医療システムを改悪しているのではなくて、むしろ色々な側面から”修理”する改革です。

問題点③:バイアスのある証言(Anecdote)の寄せ集めはエビデンスではない

三つめはバイアスのある「証言」を集めてつなぎ合わせることで、あたかもエビデンス(科学的根拠)であるかのように論じているところに問題があります。この本のほとんどはアメリカの一般市民(専門家ではなくオバマケアのことをほとんど理解していない人達)の「証言(Anecdote)」を拠り所にしています。オバマケア導入で得をした人に話を聞けばプラスの意見が得られますし、残念ながら損をしてしまった人たちに話を聞けばネガティブなコメントが得られます。この本は、この「マイナスのコメント」を寄せ集めたものであると理解することができます。ハーバードでオバマケアに関するシンポジウムが2014年10月に開催されました。その時に、聴衆の一人であったジャーナリストが「私の知り合いでオバマケアで保険料が上がって困っていると言っている人が何人もいる。オバマケアはアメリカの医療制度を改悪しているのではないか?」というコメントをしました。MITの医療経済学者であり、オバマケアのデザインを行った人の一人であるジョナサン・グルーバー教授はこのように反論しました。「証言の寄せ集めはデータではなく、エビデンスでもありません。我々はきちんとデータを集めており、平均すると、アメリカ国民の保険料はオバマケアによって安くなっていることが分かっています。人によっては残念ながら損になってしまっているかもしれませんが、そういった個々の話に惑わされずに、データを用いてきちんと全体像を見るようにしてください。」この本には少ないながらも表やテーブルも引用されていますが、ストーリーラインに合う情報を集めてきたものが多いと考えられます。例えデータを使っていたとしてもCherry-picking(自分に都合のよいものだけ選り好みすること)したデータはエビデンスにはなりません。政策評価(Program evaluation)を行うに当たっては、ニュートラルな情報を集めて、バイアスの無い形で解釈することがとても重要になります。

最後に

実際に現場で患者さんを見ている医師(臨床医によるオバマケアに関する見解に関しては、ハーバード大学の移植外科教授の河合達郎先生のこちらのブログが詳しいのでご紹介させて頂きます。

14件のコメント 追加

  1. 大口展生 より:

    勉強になりました。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      大口展生様、コメントありがとうございます。日本の皆さんがアメリカで起きている医療改革の実情を正しく理解して頂くことに貢献できれば幸いです。

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  2. Ryotaro Saiki より:

    いつも更新を楽しみにしております。

    残念ながら、この方は最初からこんな感じでしたね。
    「ルポ 貧困大国アメリカ」における情報操作
    http://ameblo.jp/993c4s/entry-10102195720.html

    ジャーナリストの方もエビデンスに基づいて仕事をしてほしいですね。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      Saiki様、コメントありがとうございます。ジャーナリストの方が一般の方にも分かり易いように難しい事柄を伝えるというのはとても重要な仕事だとは思っているのですが(アカデミアはそれがあまり得意ではないので)、中立性を保った説明が必要だと思います。本を売るためには刺激的なタイトルや内容の方が良いとは思いますので、その点ではジレンマがあると思うのですが、そこはプロですので、正確な情報を用いながら”面白さ”を追求して頂きたいと思います。

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  3. Tessy より:

    ソバルディは日本でも今は保険使えないで自費で1000万以上かけて個人輸入するしかない、っての書いてないのは作為感じますね。この手の高価な「画期的新薬」
    保険でカバーするかは、どこでも問題になっているようですが、米国の保険では
    どんな感じになってるんでしょう?日本では高価な割りに効果は?という見方多いようですが。オバマケアではカバーされるのかな?この手の薬開発されるのは米国の凄さで世界の頭脳、先生もか?、米国に集めるんだけど際限なく金掛かる。
    どうなっちゃうんだろうね?

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      Tessy様、コメントありがとうございます。アメリカの医療では薬価は規定されておらず、製薬会社のいい値ということになっています。ただし実際には高齢者向けの公的医療保険であるメディケアの価格を目安にして民間保険会社はいくら払うか決めているため、メディケアがカバーするか、いくらの価格を付けるのかということがカギになっています。最近メディケアがソバルディをカバーすることを決めました。この薬はまさにアメリカで「いくらまで支払うことができるのか?」、「どの人に使って、どの人には使わないべきなのか?」という議論を生んでいる薬ですので、アメリカでも薬価をある程度のレベルに抑制するという方向性になるかもしれません。

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  4. 私も、この本は読んだことはなかったのですが
    ルポ貧困大国アメリカ を読んだ時には若干の違和感を覚えました。
    ご指摘、勉強になります。
    推薦した方々って…こういうところで同罪、あるいは同レベルに扱われてしまいかねないので気軽に推薦を引き受けるのは禁物ですね。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      杉原桂様、コメントありがとうございます。私は個人的には、推薦された方々は詳しい内容をご存じなかったのではないかと思っています。「アメリカの医療を日本に輸入することに反対」というスタンスに関しては私も著者と同じ意見ですので、推薦者もこの部分に同意したのではないでしょうか。ただしその主張をアピールするためだとしても著者は事実関係に関しては正しい情報を用いる社会的責任があると思いますし、(オバマケア以前のアメリカの医療制度が悪いのであって)オバマケアが悪いわけではありません。

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  5. yhanako より:

    市場調査に利用させてもらっています。オバマケアのような大きな力学が働く中、市場はどう動き、どのようなビジネスチャンスが生まれ、成長していくのか見極めようと思っており、このように正確な情報を分かりやすく、かつ日本語で提供していただけるのはとてもありがたいです。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      yhanako様、コメントありがとうございます。今後とも何卒よろしくお願いいたします。

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  6. Masao Yonekawa より:

    医療政策学、医療経済学を専門にしているとの触れ込みですが、まったく現実を見ておられないようですね。あまりにも、的はずれな反論で笑ってしまいました。堤未果さんの爪の垢でも煎じて飲まれたらいかがでしょうか?ご自分の足で歩いて、ご自分の目や耳で現場の意見を見たり聞いたりしてはいかがでしょうか?アメリカは、先進国で、対GD比で最大の医療費を使いながら、最低の平均寿命ですよね。中間層と言われる人たちが、医療費を払うために破産していますよね。一体何を勉強しておられるのでしょうか?学者バカという言葉が日本にはありますが、あなたのための言葉ですね。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      米川先生、コメントありがとうございます。私の説明が不十分で申し訳ありません。アメリカの医療制度がひどい状態であることは私も全く異論はありませんし、アメリカの専門家の間でも異論はないと思います。問題は「オバマケアにより(ひどい状態にある)アメリカの医療制度を改悪しているのか、それとも改善しているのか?」ということです。堤氏の本ではオバマケアが医療制度を改悪しているかのように書かれていますが、実際には改善していると考えられており、多くのデータがをそれを証明しています。オバマケアは規制を強めることで、市場に過度に依存していたアメリカの医療制度を日本のような医療制度に近づけるような改革です。オバマケアがアメリカの医療を改悪していると言っている人達(多くは共和党員)は、市場に依存した医療制度を支持している人達です。臨床現場におけるEBMのように、医療政策にもエビデンスが必要です。そして、もちろんエビデンスだけでは不十分で、エビデンス・セオリー・経験を組み合わせる必要があります。私が書いているのはオバマケアに関するエビデンス+セオリーであり、堤氏が書いているのは経験だと思います。堤氏の説明する「経験」がバイアスのある情報であったため警鐘を鳴らさせて頂きました。実際に現場で患者さんを見ている臨床医による正しい「経験」に関しては、ハーバード大学の移植外科教授の河合達郎先生のブログが詳しいので紹介させて頂きます。http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/kurofunet/tkawai/201503/541100.html

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  7. 九州医事研究会 より:

    日本におけるDPC制度の第一人者もオバマケアは偉業であると論評されております。
    津川先生のご指摘のとおりの評価です。

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    社会保険旬報2575号 オバマケア法の成立とその影響 冨岡慎一 松田晋也
    https://www.shaho.co.jp/shaho/teiki/junpo/j2014/j2575.html
    引用
    >オバマケア法はアメリカの医療保険史における極めて大きな業績といえる。これはアメリカ国内国内での評価としても世界恐慌下のフランクリン・ルーズベルト大統領が実施したニューディール政策、1965年に成立した高齢者及び低所得者をそれぞれカバーするメディケア、メディケイド法案に並ぶレベルの社会政策的な偉業であるとの見方も広がってきている。

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    1. Yusuke Tsugawa より:

      コメントありがとうございます。松田先生と同じ考え方であるということはとても光栄です。今後ともよろしくお願いいたします。

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