大事なことなので何度でも言います。35分に1人が他人のたばこの煙で亡くなっています。今回のチャンスを逃したら、今後10~20年はチャンスは来ないと思っています。国民の声は必ず届きます、今こそ声を上げましょう。#たばこ煙害死なくそう https://t.co/jOXevFxkPe
— 津川友介 (@yusuke_tsugawa) 2017年5月24日
この「35分に1人」という数字は、日本で年間15,000人の人が受動喫煙によって亡くなっているという研究結果から来ています。これに対して、以下のように様々なコメントを頂きました。結論から言うと、この15,000人という数字はそれほど科学的根拠の強いものではないのではないか、というものです。
社会科学者はエビデンスを見つけ出すだけでなく、学問的知見に基づいた上で価値判断にも踏み込み、意思決定についてのガイダンスを提供すべきではないかと思う。下で引用したどのツイートもとても勉強になりました。
⚡️ 「エビデンスと意思決定」https://t.co/zlk9t6tvj2— 山口慎太郎 (@sy_mc) 2017年5月26日
若き統計学者の英国: 日本では受動喫煙が原因で年間1万5千人が死んでいるらしい https://t.co/7Kj9DqBB1S
今年はもう更新しません.
— 便座DØ)))PENESS (@benthedopeness) 2017年5月26日
実は、この15,000人という数字は私が自分で計算したものではなく、「たばこ対策の健康影響および経済影響の包括的評価に関する研究」で報告されていた数字を引用しているだけです。つまり、私が数字を「盛った」わけではなく、報告されているエビデンスをご紹介しただけです。
エビデンスを「盛る」ことが正義であるとは私は考えません→ 2011年に書いたものhttps://t.co/Gu1s5FChfI
— takehiko-i-hayashi (@takehikohayashi) 2017年5月27日
ではそもそもこの数字は正しいのでしょうか?
どのような研究結果だとしても(例えRCTが行われていたとしても)、それから「日本で受動喫煙で何人死んでいるか」を計算するためにはいくかの仮定(Assumption)が必要になります。もちろんこの仮定は少なければ少ないほど良いのですが、仮定をゼロにすることはできません。
例えば、この片野田 耕太氏(国立がんセンター)の研究では、受動喫煙によって肺がんによって死亡する確率が30%上昇するというメタアナリシスの結果を元に計算しています。この元となるメタアナリシスには質の低い研究も含まれているということで、本当にこの数字は正しいのかという疑問が出てくるのはもっともだと思います。
そこで観察できない交絡因子の影響まで考慮し、この数字をできるだけ控え目に計算すると、受動喫煙による死亡者数は年間10.500人くらいになりそうです。計算方法および仮定に関しては、KRSKさんのブログをご参照ください。
書いた。今回は受動喫煙に関するエビデンスについて基本の確認と考えていることをまとめ。特に、「エビデンス」という概念に関する説明と最後の感度分析は個人的にチャレンジした。 #はてなブログhttps://t.co/A3Hv3vJdjp pic.twitter.com/o7QxMZgKjK
— KRSK (@koro485) 2017年5月28日
Global Burden of Diseaseというプロジェクトによると約9,000人が受動喫煙によって亡くなっていると推定されています。これら9,000〜10,500人という数字は、受動喫煙による死亡者数の推定値の下限であると言っても良いと思います。上限は計算していないのですが、いずれにしても、「受動喫煙によって毎年15,000人(少なく見積もっても9,000〜10,500人)の人が亡くなっている」と結論付けて良いと思います。
アメリカにおける受動喫煙による死亡者数は42,000人と推定されていますので、この10,500~15,000人という値は妥当なラインだと思います。ちなみに、このアメリカの研究はAmerican Journal of Public Healthという公衆衛生学の中ではトップジャーナルの一つに掲載されているのである程度信頼できる研究結果だと思われます。
拙書「原因と結果の経済学」にも書いていますが、観察研究からは因果関係を言えないと言うのは極論だと思います。アメリカの医学研究においては、比較効果研究(Comparative effectiveness research)という研究分野が盛り上がっており、お金がとてもかかる上に外的妥当性の低いRCTだけに頼るのではなく、いかに観察データから上手に因果推論を行うかが重要視されてきています。
エビデンスには「質の高いエビデンス」と「質の低いエビデンス」があります。「スマホを見ると学力が下がる」といった主張はそもそも多変量解析すらしていないので、エビデンスとは呼ぶことはできません。しかし、コホート研究で多変量解析したものであれば、エビデンス(質の高さはデザインによる)と呼んでよいと私は考えます。
あなたは医師で、目の前に病気で苦しんでいる患者がいたとします。治療法は確立されておらず、唯一あるのはあまり質の高くないコホート研究によって効果があるとされている治療法だったとします。この場合、エビデンスレベルが低いので、治療をしないという選択肢を取りますか?患者はより質の高い研究が出るまで治療するのを待って欲しいと思っているでしょうか?
より質の高い研究を要求することで、学問のレベルを上げ、より高みを目指すことは重要だと思います。しかし、その一方で、社会には「今すぐ解決しなければいけない問題」が山積しています。科学的根拠に基づく政策(エビデンス・ベースド・ポリシー)とは、「今手元にある最良のエビデンスを判断材料にすることで、国民にとって最善の政策をデザイン・選択すること」だと私は考えています。学者が「エビデンスは無いので分からない」と言えば、政策は既得権益によって政局の中で決めらてしまいます。
私の上司であり友人でもあるハーバード大学教授のアシシュ・ジャ(アメリカを代表する医療政策学者の一人)に以下のようなアドバイスをもらったことがあります。
”私の研究は100%完璧なものではなく、80%くらい正しいものであると思っている。でももし私がその8割方確からしい研究結果をタイムリーに世の中に出していかなかったら、もっとずっと質の低いデータを元に政策が決まってしまったり、政局やロビイングによって決まってしまうことだろう。研究によって世の中を良くしたいと思うのであれば、研究の質にこだわりすぎて大局を見失わないようにすることも重要だ。”
イギリスを代表する科学者の一人で、健康の社会的決定要因などを提唱してきたマイケル・マーモット氏も同様のことを言っています。
”社会科学者はエビデンスを見つけ出すだけでなく、学問的知見に基づいた上で価値判断にも踏み込み、意思決定についてのガイダンスを提供すべきではないかと思う。”
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