医療保険の自己負担割合のインパクトを評価したランダム化比較試験「ランド医療保険実験」

医学の世界では広く行われているランダム化比較試験(RCT; Randomized controlled trial)(研究対象者をランダムに治療群とコントロール群に割り付けることで、治療のインパクトをバイアスの無いかたちで評価する研究方法で、もっとも質の高い研究方法であるとされています)ですが、先進国で行われた医療保険を対象としたRCTは、このランド医療保険実験(RAND Health Insurance Experiment)と、2008年にこの実験を元に行われたオレゴン医療保険実験(Oregon Health Insurance Experiment)の2つだけだとされています。今回はランド医療保険実験に関してご説明したいと思います。

ランド医療保険実験とは?

医療経済学の世界ではじめて行われたRCTがランド医療保険実験になります。これは1971~1986年に、アメリカの6市に住む2750世帯を対象に行われた歴史的な実験であり、医療費の自己負担割が受療行動にどのような影響を与えるのかを実証的に調べたはじめての研究です。医療保険があると必要以上の多くの量の医療サービスを消費してしまうという(そしてしそのため社会全体の幸福度=Social welfareは下がってしまいます)モラル・ハザードを、自己負担割合を設定することで抑制することができるかを見た研究であると理解することもできます。このブログにも何回もでてきているハーバード大学の医療経済学者のジョセフ・ニューハウス教授が、カリフォルニア州にあるRAND研究所(アメリカを代表するシンクタンクの一つ)にいたときに行った社会実験です。この実験は1984年のドルで1億3600万ドル(2014年のドル換算で約2億6000万ドル)の研究費が投じられたと言われる巨大プロジェクトでした。この研究だけの為に民間医療保険会社が設立され、その会社によって保険の還付などが行われました。2750世帯の研究対象者は無料で医療保険をもらうことができたのですが、そのプランはランダムに以下の4つ(それに加えてHMOプラン)の自己負担割合に設定されていました。そして3~5年間フォローアップし、受療行動や健康のアウトカムが評価されました。

  • 自己負担ゼロプラン
  • 自己負担25%プラン
  • 自己負担50%プラン
  • 自己負担95%プラン
  • HMOプラン(自己負担はゼロだが受診できる医療機関は制限される)

さらには、年間の自己負担上限(out-of-pocket maximum)が収入の5%、10%、15%と$1,000のいずれかより低い方に設定されており、上記の自己負担割合と組み合わせられ各プランが作られていました。ちなみに自己負担100%(無保険と同じ状態)のプランは研究倫理に反すると言うことで設定することができませんでした。この知識のギャップを埋めるために行われたのがもう一つのRCTであるオレゴン医療保険実験であり、この研究では無保険者に医療保険を与えたらどうなるかというランド医療保険実験が答えることができなかった問題の解を得るために行われました。

医療保険の自己負担割合の受療行動へのインパクト

ランド医療保険実験から得られた知見は、自己負担割合が高くなると医療サービスの消費は抑えられ、医療費は低くなるが、健康状態は悪影響を受けないというものでした。正確には最も貧困で健康状態の悪い6%の人達においては自己負担割合を設定することは健康に悪影響を及ぼすと言う結果だったのですが、これに関しては後述します。

受療行動への影響は自己負担ゼロと25%の間で最も顕著に見られました。金額の大小に関わらず、自分のお金を支払わないといけなくなると医療サービスの買い控えをするというと考えられました。自己負担ゼロのプランと比較して、自己負担割合があるプランに割りつけられた人は年間受診回数は1~2回ほど少なく、入院は20%減少しました(下図)。医療費に関しては、自己負担ゼロのプランと比較して、自己負担25%のプランでは20%、自己負担95%のプランでは30%の医療費削減がみられました。医療サービスの買い控えは体調が悪くなった時にそもそも受診するかどうか(英語ではextensive marginと呼びます)に顕著に見られ、一旦受診して医療サービスを受け始めた後にどれくらい多くのサービスを受けるか(intensive margin)にはあまり見られませんでした。受診するかどうかは患者さんの意思が占める割合が大きいですが、一旦受診した後どのようなサービスを受けるかは医師と患者さんとの相談の上決まるかもしれません。

ランド医療保険実験 外来受診回数

ランド医療保険実験 医療費

医療保険の自己負担割合の健康へのインパクト

全体としては、自己負担割合がある群とない群との間には健康のアウトカムに差は見られませんでした。しかしながら、最も貧困で健康状態の悪い6%の人達においては、30個の健康指標のうち4つで自己負担がある方が健康状態が悪くなると言う結果が認められました。その4つの影響が認められた健康アウトカムは以下になります。

  1. 高血圧症・・・自己負担ゼロのプランの方が血圧が低く抑えられていました(推定で10%の死亡率抑制効果があると考えられました)
  2. 視覚・視力・・・自己負担ゼロのプランにいた方がわずかに良い視覚・視力が得られました
  3. 歯科ケア・・・自己負担ゼロのプランの人の方が適切な歯科ケアを受ける確率が高くなりました
  4. 重篤な症状(Serious symptoms)・・・自己負担ゼロのプランの方が「重篤な症状」を経験する割合が低くなりました。この研究における「重篤な症状」とは、胸痛、出血、意識消失、呼吸困難、10ポンド(約4.5 kg)以上の体重減少

さらには自己負担ゼロのプランにいる方が自分達の健康に関して心配することが少なかったり、健康に関連して日常生活が制限される日数(医療サービスを受けることによる制限も含む)が少ないと言うメリットも認められました。

医療保険の自己負担割合の医療の質へのインパクト

自己負担割合の有無と医療の質との相関はないことが示されました。それ以上に衝撃と共に受け入れられたのは、質の高い医療サービスは62%の場面でした認められなかったということです。ちなみに、その後の2000年代になって、マックグリン(McGlynn)らが行った研究でも推奨される医療ケアは55%でしか認められませんでした(McGlynn et al. NEJM 2003)。これらの研究結果は今でも医療の質をもっと上げるべきだという議論の科学的根拠となっています。

価値の高い医療サービスと、価値の低い医療サービス

前のブログでもお書きしたとおり、ランド医療保険実験では、患者さんは価値の高い医療サービスも価値の低い医療サービスも一律に買い控えするという現象が見られました。価値の低い医療サービスだけ購入を減らしてくれるのであれば自己負担割合は良いことしかないのですが(少なくとも非貧困者にとっては)、価値の高い医療サービスも一緒に受けなくなってしまうのは問題です。この問題を解消することを目的として考え出されたのが、バリュー・ベースド・医療保険(Value-Based Insurance Design)です。

事前の(ex ante)モラル・ハザード、事後の(ex post)モラル・ハザード

前のブログでご説明したとおり、モラル・ハザードには2種類あります。一つは事前のモラル・ハザード(ex ante moral hazard)で、もう一つは事後のモラル・ハザード(ex post moral hazard)です。事前のモラル・ハザードとは、医療保険があるといざという時に医療ケアが受けられると分かっているため、たばこを吸ったり、運動をしなかったりと、自分の健康ケアをあまりしないことを指します。病気になる前の段階でのモラル・ハザードですので、「事前の(ex ante)」という枕詞が付きます。一方で、事後のモラル・ハザードはいざ病気になった時に必要以上の量の医療サービスを購入する現象を示します。病気になった後の話ですので、「事後の(ex post)」と呼ばれます。ランド医療保険実験では、前述の通り、自己負担割合の存在によって事後のモラル・ハザードは顕著に抑制されたものの、事前のモラル・ハザードにはほとんど影響はありませんでした。つまり、自己負担ありのプランに割り付けられると、受診回数や医療費は抑制されるものの、喫煙率や肥満度が抑えられるということはありませんでした。これらの「予防」に関しては自己負担割合だけではなく、その他の医療政策のツールを用いることが必要なのかもしれません。

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