[対談]ロールズの正議論をめぐる議論

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(写真:PatrickSeabirdクリエイティブ・コモンズ表示 2.0 一般

過去2回のブログ(前半後半)で、ロールズの正議論のご紹介をしました。私は資本主義でしばしば問題になる「持たざる者」を減らすような政策を作るときに、ロールズの提唱した思考実験は良いツールになるのではないかと思いご説明しました。思った以上に反響があったのですが、このトピックに関して倫理学者、政治・法哲学者の青山利恵子さんと議論させて頂く機会がありました。私自身とても勉強になったので、その内容を対談形式でご紹介させて頂きたいと思います。

はじめに青山さんのご紹介をいたします。

青山利恵子

倫理学者、政治・法哲学者。上智大学文学部哲学科・同大学院哲学研究科 博士前期課程修了後、2003年にハーバード大学大学院で研究する為、渡米。2008年にHarvard Divinity SchoolにてMaster of Theological Studiesを取得後、国際医療系NGOにて途上国の母子保健改善に携わる。2013年よりコロンビア大学公衆衛生大学院であるMailman School of Public HealthにてMPH: Master of Public Health(公衆衛生修士課程)プログラムに在籍し、History, Ethics and Law(歴史、倫理と法律)を専攻。

青山(以下、敬称略):ブログを興味深く拝読させて頂きました。

津川:ありがとうございます。青山さんはロールズの正議論の現代社会に生かせる点、そして問題点に関してどうお考えですか?

青山:津川さんがブログでお書きになったように、基本財については、これは余りにも意見が分かれるポイントですので、何が含まれるかをここで議論するのは筋違いだと私も思います。私がそれよりも問題視するのは、それを決める際にどういう手続きプロセスを経て、誰がそのSocial value(社会的価値観と訳される。社会の構成員全体で決める、その社会にとって何がベストなのかと言う価値観の総意のこと)なり、基本財なりを決める時に議論の場にいれるのか、です。つまり、ロールズの思考実験は、結果に何が含まれるかより、その手続きの仕方、プロセス、誰の声が聞き入れられて誰の声が無視されるのか、ということに問題がある様な気がします。つまり、ロールズの思考実験では、少なくとも議論の場にいる全員の希望を含める事は出来ません。だからこそ、出てくる結論は満足の行くものでなくても、納得するものでなくてはいけない。しかしロールズの思考実験では、誰が議論に含まれるか、それについての透明性に関しては疑問が残ると思います。

津川:おっしゃる通りだと思います。次回のノーマン・ダニエルズの説明をするブログで、意思決定のプロセスに透明性が必要であると言う文脈で、Accountability for reasonableness(分配が正当になされているかどうか合理的に説明できることを指す。ダニエルズが提唱しているコンセプトである。)に関して説明しようと思っていますので、そこでその話に触れさせて頂こうと思っていました。

青山:なるほど、そうなんですね。私は、ダニエルズというよりロールズのJustice as Fairness(公正としての正義)についての文脈で述べていました。津川さんがおっしゃる通り、まずこれはあくまでも「思考実験」であり、津川さんが前回のブログで記載されていた通り、例えば「社会保障」などについて考えたとき、とても有用です――なぜなら、津川さんもまさにご指摘された通り、私たちは自分たちが例えば年収1000万の職に就いているとします。そうすると、社会保障なんて、社会階層の最下層の人間たちの事だろう?これだから、こういう人間は・・・と他人事で議論することになってしまう可能性が高くなります。そうしている限り、一方的に保障を受ける側の人間(社会のセイフティ―ネットの対象となる人間)の自己責任を求める傾向、つまり懲罰傾向になりがちです。しかしロールズの思考実験により「原初状態」で「無知のベール」を通して同じことを考察するのであれば、誰もがまず「最低限の生活は保障してほしい」となり、保障を手厚くする傾向になるはずです。これだけ考えれば、もちろんロールズがこれを唱えたことには大変意義があると思います。そうでない限り、ロールズが生まれたアメリカのような個人主義を重視する社会では、個人の不幸は個人の責任と解釈され、元々運よく社会で恵まれた地位に生まれた人(代々富裕層の家庭に生まれた人など)に、他の助けを必要としている人々を救う責任を問うことが難しくなる――すなわち、格差は拡大する一方で、弱者・貧者が現在の境遇から抜け出す機会がますます限定されてしまいます。だからこそ、この思考実験を通して、ロールズは格差原理(Difference Principle)という斬新なルールを社会の構造に組み入れることを提案し、こうしたこれまでの強者が支配する世界の仕組みをもっと他の社会に属するメンバーにも公平にするように試行錯誤していました。

津川:確かに一般的にはアメリカは個人主義的な社会であり、日本は全体主義的な社会であるという印象がありますが、実際はどうなのでしょうか?例えば、貧困、喫煙、生活保護、医療ミスなどあらゆる場面で、アメリカはシステムの失敗に原因を求めます。アメリカでは、貧困は生まれた環境や不十分な教育のせいであり、喫煙も教育不足や周りの人の影響、生活保護もきちんと教育や職業訓練を受けられなかったことで仕事を失い、医療ミスはそれを防ぐシステムが無かったことを問題視する傾向があります。それに対して、日本ではこれらすべてにおいて個人の自己責任を求める傾向がある気がしています。生活保護の人がパチンコをやっていたら生活保護費の支給を差し止めるというのも、個人の意思の弱さに原因を求めている。正に懲罰傾向ですよね。そういった意味合いで、私はロールズの思考実験で公正な社会を達成する必要性は、アメリカ特有の問題ではなく、ひょっとしたら日本の方がこの考え方からメリットを得られる可能性があるのではないかと感じています。

青山:おっしゃる通りですね。一般的なイメージと異なり、確かにアメリカよりも日本の方が個人に責任を求める傾向はあるかもしれません。話を戻しますが、ロールズの正議論は、大変意義のある倫理学上の改革だったと思います。これにより、それまでの西洋哲学でソクラテス・プラトン・アリストテレス(そしてトマス・アクィナス)以来大前提とされていた何が「善」で何が「悪」かという形而上学的・超自然的議論(神学に近い(神=善と言うような、もっと認識論に近い議論))よりも、正義論を何が公正(Fair)なのか、というそもそもの現実の世界の構造、社会の仕組み自体に問題があるのではないか、という視点に置き換えたからです。そしてそもそもの不公平を産み出している社会の仕組みを直せば、何が「善い」とか「悪い」とか延々と結論の出ない認識論的な(無駄な)議論をせずとも社会の”歪み”を直せるはず、と指摘し、これは自然科学で言う所のコペルニクス的転回やダーウィンの進化論に匹敵するような衝撃を西洋思想史の流れに起こしました。これは評価されるべきだと思います。

ロールズの正議論はこのようにして、これまでの倫理学に足りなかった視点を持ち込んだ、と言う点で評価されるべきである一方、ロールズの正議論でも疑問にされる点が幾つかあります――ただし、これらについては一様にロールズが批判されるべきとは思いません。それよりむしろ、今の倫理学の限界を示しているような気がします。まず、ロールズの正議論では公共財(Public goods)をequally(平等)にではなく、fairly(公正)に分配する方法を唱えました。そしてこのfairness(公正さ)を達成するために、「原初状態」に全ての関係者グループを投げ込み、全員が「無知のベール」で包まれている、という仮定の状況をわざわざ作り出しました。ですから、”何”(what)が分配されるのか、というよりも”どのように”(how)分配するものを決定するのか、という”手続き”の方によりロールズの思考がめぐらされる結果となりました。

しかしその結果、プロセスばかりに目が行き、肝心な「結果として”何”(what)が”誰”(who)に”どれぐらい”(how much)分配されるのか?」という事に適切に応えていないセオリーに収まってしまったような気がします。つまり、ロールズは「この手続きを経て出た結論(=基本財)は、それだけ聞くといかに納得いかないものに社会のあるグループには映ろうが、ほら、この結論が出てきた過程をよく見てみなさい――みんなの最優先の希望(ニーズ、需要)がもっともよく反映された結論だろう?だから、意思決定の手続き上問題が無いのだから、これはあるグループには平等に映らなくても、結局の所、全体を見れば公平なのだから、受け入れなさい」と言うような、結果をある意味(全部じゃありません)ないがしろにしてしまっているような主張に収まってしまうと思えるのです。勿論、これは「ロールズが意味のない結論を導き出している」と言う事ではありません。そうではなく、「ではこの社会合意を通して決定された基本財が、実際どのような効果をもたらすのか?」ということには責任を持たないスタンスを持ってしまっている、ということです。そしてそこにロールズの正議論の問題点が少しあるような気がします。ただ、これについては色々な議論があると思います。

私が解釈した限りでは、この社会合意のもと決定された基本財は、「無知のベール」のもと、全メンバーにとって必要な・有益なものと判断されたものなのだから、実社会で各構成員に分配するときにも、みんながある程度納得して受け入れられるものだろう、とロールズが言っているとも取れるのであり、そうなるとしかし、異なる能力・背景を持つ個々の人間が、実際にどう異なる仕方で(ユニークに)その与えられた”財”を使いこなすのか、あるいはどの様に異なる効果・成果をその”財”から得られるのか、という、手続きではなくもっと提供された財から導き出される「結果・効用」そのものに対する評価や保障が抜けている感じがします。

私見では、この様な思考プロセスをロールズが生み出したのは、アメリカのような近代国家形成の過程で多く誕生した「多様な社会」において有効だからだと思います。即ち、移民の移動・流入により形成された近代国家では、様々な民族集団がいることから、常に「誰が」「何を」「主張」して、「誰の」「どの意見が」通ったのか、ということを気にします。つまり、言わなければ終わり、自分たちのグループは不利益をこうむってしまう――それを避ける為に、全グループに納得がいく、公平な意思決定の仕組みを作る必要があった。でないと、喧嘩してばかりで一向に結論に至りませんから。全員の全要求が通らないのであれば、皆不満に思う所があっても、皆が最大限納得の行く合意を形成する――そうすることで国としてのかじ取りをする。

言い換えると、「どうすべてのグループの要求が反映されているか」という関心が強いあまり、結果として合意された内容が最善の効果を産み出すか、という議論のそもそもの目的を軽んじる結果になっている気がします。

だからこそ、「そもそも効用の乏しい結果」を導き出す理論に妥当性があるのか?と帰結主義(consequentialism)のノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授やハーバード大卒シカゴ大教授のマーサ・ヌスバウムに根本的な事を問われてしまいます。ここにこそ今の倫理学が「応用倫理学」になりきれていない――というか、応用倫理学の効果が発揮されていない――その限界が示されていると思います。つまり、功利主義(utilitarianism)を修正する形で義務論(deontological)な方向に西洋倫理が向かったものの、再び「それでは”応用倫理”だから実問題を解決することを期待されているのに、やっぱり効果ないじゃん?」となり、再び功利主義のような帰結主義の方向へと転換した、と言う感じで、二つの立場を行ったり来たりしています。しかし帰結主義に傾倒しても、応用倫理学はもちろん「応用」の部分で上記の様に実問題の解決を望まれてはいますが、そもそもは「なぜこの行動が悪いのか?なぜこのような悪い行動を導き出す思考に陥ったのか?」と、行動から思考をさかのぼる認識論的な作業の占める割合も多く、そもそもはそこが正しくないと、結果として現れる行動も結局は正当化できない、ということにもなりますので、義務主義的な作業も捨てるわけにはいきません。そのジレンマに陥っている気がします。。。

津川:ロールズの正議論をめぐる議論には2つの軸がある気がします。帰結主義(結果が大事) vs. 義務論(行為そのものの価値が大事)という軸と、功利主義(功利の総和が最大化するのが一番) vs. 平等主義(egalitarian)もしくはprioritarian(不公平は最小化した方が良い)と言う軸の2つです。いずれも価値観の問題ですので、どちらが正しいか正しくないかは言えないと個人的には思っています。私は基本的には功利主義で良いと思っているのですが、功利主義の最大の問題は功利の分配を考慮することができないため、それに関する修正が必要なのではないかと考えています(それが社会保障制度なのだと思います)。この分配の問題を解決するフレームワークの一つとして、ロールズの思考実験はとても有用なのではないかと思っています。ロールズは利益に関して、功利よりも基本財が良いと主張しましたが、私は原初状態で功利の分布を決めるもの「あり」じゃないかなと考えています。いずれにしても、現在の社会においては日本もアメリカも不平等をどのようにとらえて、解消するかということを議論するときに共通のプラットフォームを持っておらず、それが合理的な議論を進めにくくしている理由の一つであるかのように感じています。

青山:津川さんのおっしゃることに私も賛成です――ロールズの正議論の意義はまさに津川さんがご指摘なさった点にこそあります。ロールズはそれまでの功利主義で見落とされていた「誰が誰に対して何を負うているのか”What we owe to each other”」という視点を取り入れました。そして誰が誰に何を負い、それに基づき「誰がではこの利益(benefit)の分配から利を得られるのか」、という公平性を問いました。これはそれまでの功利主義では追及されなかったことです。しかし先に私が述べた通り、fairnessに重点を置きすぎたがために、肝心な功利(utility)を軽視する結果にもなりました。それをアマルティア・センの潜在能力アプローチ(capabilities approach)により批判されてしまったわけです。

津川さんがおっしゃる「功利の分布」を、ロールズの公平性の視点を取り入れたプロセス・手続きを経て決定する、というのはまさに誰もが現代正議論で証明したい立場でしょう。私もそれに近いです。ロールズの立場にはもう一つ難点があります。最初のコメントで書きましたが、「誰が」そもそも彼の思考実験である「原初状態」で「無知のベール」に包まれる場に招かれるか、なのです。例えば彼の思考実験では恐らく暗黙の了解で、「お互いにお互いを助け合う義務を負っている同じ共同体のメンバー」であることが前提とされているような気がします。つまり、一般的な西洋の国家でロールズに従い財の再分配を決定するとき、その思考実験で、一体誰が「もし私が戦争から逃れてきた難民で、この国に何も税金も納めていないのに、生活保護も受けたい、保険も欲しいとなったらどうだろう?」と考えるでしょう?ロールズの正議論の分配の対象となるのは、例えば「税金を納めている人」、あるいは「市民権を持っている人」に限定されると思います。しかしこれでは同じ共同体の枠内ではいいものの、例えば国際協力の場ではどうでしょう?先進国は途上国に「負うている」ものはあるでしょうか?不平等な関係ではないでしょうか?

ピーター・シンガーは、地球自体を大きな「共同体」と考えればよい、と言いましたが、それはやはり平等主義(egalitarian)な立場です。実際はみな、先進国が途上国に「善意」で提供している物が多い、と考えてしまいがちです。そして今のヨーロッパの難民受け入れをどう考えたらよいのでしょう?難民はヨーロッパの国では基本的な権利がありません。従って税金を納める義務も果たしていません。その人を富の再分配の場で、功利の分配の対象にすべきなのでしょうか?そして誰が彼らを思考実験の場に招きたいと考えてくれるのでしょうか?こういった、「国」という共同体の枠組みを抜け出したとき、ロールズの正議論では対応するのが困難です。勿論、社会保険等は「国」ごとに運営されるわけですから、それを考えると、わざわざ「国」以上の大きな共同体を想定する必要はないかもしれません。しかし、これからのグローバル化する地球の将来のあり方を考えると、それを超えるシンガーのような立場の方が有利かもしれません。ただ、その時は問題になるのは、やはり逆にロールズで問われていた「誰が誰に何を負うているのか」をはっきりさせられない事です。博愛主義でもない限り、地球規模での問題は解決できません。。。だからこそ、義務ではないので、途上国支援に限界があるのでしょうね。

津川:共同体の単位に関しては私も青山さんと同じ意見であり、税や社会保障の精度は国単位で規定されているので、「共同体」の単位は国であると考えています。そして、その上での地球全体での国間の互助の義務があるのだと考えています。この互助は博愛主義というよりも、人間として最低限の暮らしができないことはそれ自体が悪であるという価値観(人間の安全保障のコンセプトに近いのかもしれません)と、国家の安全保障上の問題(貧困に瀕している国家が不安定化して地球規模で不安定になるため)からです。そう考えると、難民は国として最低限の暮らしを保障する必要はあるものの、意思決定の中枢には入ってもらう必要はないと考えます。そうしないと、もし仮に大量の難民が入ってきた場合に、その国の主権を奪われてしまうリスクすらあると思います。

今回はお話をお伺いさせて頂きありがとうございました。とても勉強になりました。この議論を通して、私も読者の皆様も、ロールズの正議論の良い点と悪い点に関して理解を深めることができたと思います。ありがとうございました。

1件のコメント 追加

  1. Effective altruist より:

    ピーター・シンガーは基本的に功利主義 (Utilitarian)だと思いますよ。彼の提唱するeffective altruismはthe greatest benefit for the greatest numberを基本にしています。彼の演説や本をよく読めば分ると思います。

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