予防医療のうち医療費抑制に有効なのは約2割

ちまたでは健診の効果や、予防医療が医療費抑制効果に有効なのではないかと言う議論が行われているようですので、このブログでは科学的根拠(エビデンス)でどこまで分かっているかご説明したいと思います。アメリカの医療政策学・医療経済学の世界では、予防医療が必ずしも医療費抑制に効果的であるわけではないと理解されています。これは「全ての予防医療サービスに医療費抑制効果がない」と言っているのではなく、「予防医療サービスの中には医療費抑制効果があるものもあるが、多くの予防医療サービスは実際には医療費を抑制しない」ということです。これは2つの研究をエビデンスとしています。一つ目はジョシュア・コーエン、ピーター・ニューマン、ミルトン・ワインシュタインの3名の費用効果分析の学者たちが2008年にNew England Journal (NEJM) 誌(臨床医学のトップジャーナル)に発表した総説(Perspective)です。二つ目は、カイザー ・パーマネンテ(カリフォルニア州を中心とするアメリカ最大規模の医療保険会社かつ病院グループ)の研究者たちが2004年にHealth Affairs誌に発表した研究結果です。前者の方が論文の質が高いこと、またアメリカの医療政策へのインパクトが大きかったと考えられることより、前者の報告を中心にご説明いたします。

1.コーエン、ニューマン、ワインシュタインの予防医療に関する総説(NEJM, 2008)

NEJMの総説は、アメリカの大統領選挙においてバラク・オバマ大統領候補(当時)やヒラリー・クリントンらが「予防医療サービスに注力することで医療費削減を目指す!」という議論を展開していたことに対して、医療に関する費用効果分析研究の第一人者である著者たちが「いやいや、なんで予防医療は医療費削減に効果的であると決めつけているんですか?そういうイメージがあるだけじゃないんですか?」と反論した論文になります。著者の一人であるミルトン・ワインシュタインはハーバード公衆衛生大学院の教授ですが、医療の世界に費用効果分析を広めた人として有名です(医療における費用効果分析の父と呼んでも良いかもしれません)。この研究はタフツ大学にある費用効果分析のレジストリ(登録データ)を用いて、その時点までに行われた費用効果分析で医療費抑制に本当に効果があったと考えられるものはどれくらいあったのかを調査しました。具体的には2000年~2005年に発表された費用効果分析の論文599をレビューして、1500個の費用効果比(Cost-Effectiveness Ratio)を調べました。費用効果比とはその医療サービスに必要なコストに対して、どれくらいの健康のメリットが得られるかという比のことです。Cost-savingとは健康のアウトカムが改善されるだけでなく、医療費抑制効果もあるもののことを指します。Cost-effectiveというのはお金はかかりますが(医療費抑制効果はありませんが)、それと比較して得られる健康のメリットが大きいもののことを意味します。おおまかに言うと、増分費用効果比(incremental cost-effectiveness ratio: ICER)という費用対効果の指標が英国であれば3万ポンド以下、アメリカであれば5万ドル以下であればcost-effectiveであるとされています。Cost-ineffectiveとはお金はかかります(医療費増につながります)が、健康のメリットがそれと比較して小さい(もしくは健康上のメリットがなかったりむしろ有害であったりしする)サービスのことです。このように並べたらお分かりになると思いますが、医療費抑制効果があるのはcost-savingな医療サービスだけであり、cost-effectiveな医療サービスは一見すると医療費を抑えそうですが、実は医療費増につながるのです。

  • Cost-saving=健康のアウトカムが改善されるだけでなく、医療費抑制効果もある医療サービスのこと
  • Cost-effective=お金はかかるが(医療費抑制効果はないが)、それと比較して得られる健康のメリットが大きい医療サービスのこと
  • Cost-ineffective=お金はかかる(医療費が増える)が、健康のメリットがそれと比較して小さい(健康上のメリットがなかったり、むしろ有害であるものも含む)医療サービスのこと

この総説に載っている具体的な例を用いて示しましょう。幼児へのヘモフィルス-インフルエンザb型菌(Hib : Haemophilus influenzae Type b)のワクチンはcost-savingです。つまり幼児の健康状態が良くなるだけでなく、将来病気になって医療サービスを消費することがなくなるので、長いスパンで考えると医療費抑制効果があると言うことができます。一方で、新生児への中鎖アシルCoA脱水素酵素欠損症のスクリーニングはcost-effectiveです。これは、多くの新生児にこのスクリーニング検査を行えば、少ないコストで多くの人の健康状態を向上させることができるということを意味します。つまり健康アウトカムは向上しますが、その代わりに医療費は増加してしまうと考えられます。

このような話をすると、「健康とお金とどっちが大事なんですか?」という展開になりますが、この議論には健康とお金のトレードオフは存在していません。上記のcost-effectiveの基準を決める時に、QALY(100%健康な状態で暮らす一年間の人生のことだと思ってください)1単位あたりいくらの金額がカットオフ値として適切かという議論には、健康とお金のトレードオフが関わってきます。これは価値観の問題ですので、いくらお金を払っても健康の方が大事と言う人もいれば、払うお金がないと言う人もいると思います。しかしcost-savingの概念にはこのようなトレードオフはありません。Cost-savingな医療サービスは、提供することで健康アウトカムが改善して、さらには医療費も抑制できるのです。これは価値観の問題ではなく、誰が見ても広く提供するべきであると考えられるようなサービスがcost-savingな医療サービスであると言うことができます。

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では予防医療サービスのどれくらいの割合がCost-savingで、どれくらいがCost-effectiveなのでしょうか?そしてこれらの割合は治療的サービス(実際に病気があって治すためのサービス)と比べてどうなのでしょうか?NEJMの論文では上記の1500の研究結果を費用効果比のレベル毎の分布を調べました(下図)。その結果、予防医療サービスの中で医療費削減効果のあるcost-savingであったものはわずか20%弱でした。さらには、この割合は治療的サービスと比較して多いわけではなく、予防医療サービスが治療的サービスと比べて特別に医療費削減効果があるものの割合が高いわけではないということが示されました。

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(出典:Cohen, Neumann, Weinstein. NEJM. 2008、著者訳)

繰り返しになりますが、予防医療サービスがすべからく医療費削減効果がないと言うわけではないので注意してください。予防医療と聞くだけで医療費抑制効果があると言うイメージがありますが(健診にも同じようなイメージがあるかもしれません)、実際には予防医療サービスの一部にしか医療費抑制効果がないので、医療費抑制を目的とするのであればどのサービスを提供するかを厳選する必要があると言うことです。さらには治療的サービスの中にも医療費抑制効果のあるものが同程度(20%弱)存在しているので、予防医療 vs. 治療的サービスという対立軸で考えるのではなく、予防医療であれ治療的サービスであれ20%弱のcost-saving(健康改善効果+医療費抑制効果のある)であるサービスをまずは広くカバーして提供する(たとえば自己負担なしで提供する等)のが良いのではないでしょうか。

2.ファイアーマンらに、カイザー ・パーマネンテの予防医療に関する取り組みの評価(Health Affairs誌、2004年)

簡潔にファイアーマンらの研究結果もご説明します。カイザー ・パーマネンテの研究者たちは、カイザー ・パーマネンテのグループで1990年代に行われていたDisease Management Programと呼ばれる予防医療などを提供することで慢性疾患をより効果的にコントロールするプログラムの効果を評価しました。心血管病、心不全、糖尿病、喘息の4疾患において、1996年から2002年の間で医療の質と患者あたりの年間の医療費がどのように変わったかを解析しました。その結果、医療の質は向上したものの、医療費抑制効果はないことが判明しました(一人当たりの年間の医療費は時代と共に増加していました)。この研究は、対照群のない前後比較研究であったため(医療費の増加率が「もし仮にDMPが導入されなかった場合」と比べて小さかったのか大きかったのかが分かりません)研究の質が低く、あまり確定的なことは言えませんが、予防医療を提供することで医療の質が向上させることができたとしても、その結果として医療費抑制効果は必ずしも期待できないと言うことを明らかにした研究です。

3.これらの二つの論文を解釈する上で注意点

これらの論文を解釈する上で注意しなくてはならないことがいくつかあります。論文の著者たちも私も、決して予防医療は医療費が高くなって無駄だから止めましょうと言っているわけではありません。予防医療の重要性は十分認識していますし、お金がかかっても健康に関する利益が大きい(cost-effectiveな)サービスをカバーするというのは極めて合理的な判断だと思います。重要なのは「予防医療=医療費抑制になる」という固定観念を持たずに、ケース・バイ・ケースできちんと科学的に評価する(エビデンスに基づいた判断をする)必要があるということです。

また、病気の頻度(有病率や発生率)や医療サービスのコストが日本とアメリカで異なるため、これらの結果をそのまま日本の医療に当てはめることはできないという考え方もあるかと思います。しかし一方で、「日本とアメリカでは色々なことが違うので、日本ではきっと予防医療はもっとずっと医療費抑制に役立っているはずだ」と言うのはちょっと乱暴なロジックであるように思われます。その場合には、日本では結果が異なる、という科学的根拠(エビデンス)が必要になります。日本のデータを用いた費用効果分析を行い、アメリカではcost-savingではなかったが日本ではcost-savingである、という医療サービスを同定していく必要があります。それらの研究が日本で行われ研究結果が明らかになるまでは、「少なくともアメリカでは予防医療サービスの中でcost-savingであったのはわずか2割弱であった。日本でもひょっとしたら予防医療サービスの多くには医療費抑制効果はないのかもしれない。」というくらいの理解で良いのではないでしょうか。

費用効果分析(Cost-effectiveness analysis)の方法論自体に対する疑問点もあるようです。医療サービスのコストの設定額を下げていけば、どこかでcost-savingになるのではないか、というご意見もあるかと思います。確かにこの考え方には一理あるのですが、実際の費用効果分析の結果は薬剤費を少し下げたからと言って結果がひっくり返るような不安定なものではありません。感度分析(Sensitivity analysis)と言って薬剤費などを色々と変えてみて結果に影響を与えるかどうか見ています。多くの質の高い費用効果分析研究に関しては、現実的なレベルでのコスト引き下げ(薬剤開発コストをゼロにすることも、医療従事者の人件費をゼロにすることもできないので現実的で実現可能なコストというものがあります)では結果はひっくり返りません。さらには、たとえコストがゼロであると仮定したとしても、cost-savingにならない医療サービスもあります。これらの医療サービスは、提供することで無駄な追加検査が必要になったり、本来だったら必要ではない手術につながってしまうため、その他の部分でコストがかかってきてしまうのです。

最後に、これらの研究では、人が病気になることを予防して健康で働けるようになった場合の経済効果(および経済波及効果)を計算に含めていません。費用対効果分析では、一般的に病院でお金がいくらかかったかだけを計算し、病院の外での経済活動は計算に含めないルールだからです。予防医療によって健康寿命が延び、健康に働ける人が増えたり、働ける期間が延びたりして、それが経済活動につながった場合、医療費は下がらなくてもGDPが増える可能性があります。GDPが増えて税収が増えれば、医療に使える財源が増えるので、その意味では予防医療に投資することのメリットはこれらの研究結果よりも大きい可能性があります。

4.まとめ

予防医療と聞くと医療費を抑制するようなイメージがありますが、エビデンスから分かっていることは、医療費抑制効果があるのは予防医療サービスのうちのわずか20%弱であるということです。予防医療か治療的サービスかという「ラベル」にとらわれるのではなく、予防医療や治療サービスに関わらず20%弱のcost-saving(健康改善効果+医療費抑制効果のある)である医療サービスをまずは広くカバーすることが重要なのではないでしょうか?

2件のコメント 追加

  1. 高橋 秀和 より:

    興味深く拝見しました。

    医療関係者、政策立案担当者の言説の中に「予防医療によって将来の医療費が抑制されるはずだ」という前提が見え隠れすることがあり、危険だなと思うことは少なくありません。
    時代ごとに、医療体制や医学的な知見も変化しますので、それに合わせて合理的な健診項目、予防医療の配分が実現すればよいのですけれど。
    津川さんの結論には、特に説得力がありました。

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